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敵拠点落とす前にタンクで墜ちた時、リスタ地点選択に迷います 自拠点右は敵拠点砲撃まで時間かかるし、丘左はプロガン、ジムカスがうろついてるし そんな時は多少移動時間を食っても右ルート青屋根で敵拠点攻撃でしょうか? -- (名無しさん) 2009-09-19 14 43 22 基本は「味方が展開している所」では? 敵もいないが味方もいないルートでは落ち戻りに瞬殺されるし、味方前衛としてはやはりあまり遠くでは援護もできないし、信号弾上げられてもどうもできない -- (名無しさん) 2009-09-19 15 12 45 左ルートで落ちてリスタに困ってるならとりあえず中央にリスタして状況を見ながら追加弾で支援をしながら叩きに行けるか判断をするのもいいでしょう。 どうしてもラインが崩壊してどうしようもないなら仕方ないですね。 -- (名無しさん) 2009-09-19 16 18 26 基本は中央だな 状況次第で左右どっちにも行けるし、自衛しながら強引に中央突破も狙えるし 右より、中央と中央やや右、左ルートの方が自衛しやすく感じる -- (名無しさん) 2009-09-19 16 59 10 ↑4 拠点落とせずセカンドアタックの場合だと、 味方が近くにいるポイントがいいと思います。 1落ちで敵拠点が落ちていないケースだと 敵のアンチが強力だと思いますので、 まず味方前衛機にライン上げてもらいたい。 …慣れたアンチだと、セカンドアタックを 見破って速攻を掛けてきます。 -- (名無しさん) 2009-09-19 18 45 07 このMAPは「狙」いらないよね? 味方でゲルJを選んだのがいたんだが、 2落ちでバトルスコア100ちょい。。。 正直、連邦側にいても驚異じゃないし? 上手な狙にマッチングした方、 いらっしゃいますか? -- (名無しさん) 2009-09-19 18 55 53 自分もスナはいらないと思うが、スナの話題は荒れかねない上に生産性がないのでやめておこう -- (名無しさん) 2009-09-19 20 18 40 ジオン、連邦ともに砂を見るけどほとんど地雷。2落ち3落ち当り前、それ以上もまれに有り。ランクE上等な感じですね。 地雷サイサと共に召されて欲しいですね。アーメン。 -- (名無しさん) 2009-09-19 22 00 54 脅威にはならないけど、地形的に連邦のほうが幾分使いやすいとは思う。 ただ今回66ばっかりだし、前薄くなった側はきついやね。 -- (名無しさん) 2009-09-20 04 32 52 ん?近5遠1で圧勝した…?携帯リザ見ても階級はほぼ同じ…どうなんだろ…やっぱ格射は「なくてもいい」レベルなのかな? -- (名無しさん) 2009-09-20 09 19 12 Sクラスの大将・中将以外なら階級なんて参考にならないよ。 -- (名無しさん) 2009-09-20 09 48 11 格射は入れるならどちらか1枚だと思います。両方入れて近が3枚になると前線が厳しい。 格射が近の1.5倍以上活躍しないと負ける。 が、自分のリザルトの分析です -- (名無しさん) 2009-09-20 10 12 39 44なら 格1は欲しい(格1近2タンク)けど 66だと 格無し(近5タンク)の方が安定感が出る不思議 -- (名無しさん) 2009-09-20 11 08 07 ここは基本的には開けた場所での密集戦闘だから、非常にカットされやすい。 逆カットやタンクとのデートが容易な44なら、格は楽。 だが66以上だと、仕掛ける前の警戒やカットされるのが前提となるので、相当な格か射撃戦出来るシャゲでもなければ難しい。 格も乗れてないなら要らない。元からバ格は敗因だが、ここではその被害が倍加される。なら近に乗っておけと。 開けていて射撃攻撃の有効性が高い、ここなら尚更。 枚数有利下で刈り取り用のアンチ格1が普通ならアリなんだけど、ここはそれでもカットが飛んでくるからな。 -- (名無しさん) 2009-09-20 11 39 56 質問させてください。この戦場でミノ粉が散布下で戦術に変化や注意点などありましたらご教授ください。夜に出撃の際に気を付けたいと思いまして。 -- (大佐に上がりきれない佐官) 2009-09-20 13 08 21 しかも、以前どっかで指摘されていたんだが 格が1セット入れるのと、近のマシ2~3セット+タックルがそんなにダメージ変わらない だからアンチタンクもそれでOK、って話もある そこらへんが理由じゃないかな > 格射不要論 -- (名無しさん) 2009-09-20 13 31 58 >大佐に上がりきれない佐官 まずはwiki内の関連ページを夜までに熟読。 それでもイメージできないなら今日の出撃は控えて掲示板で質問しましょう。 ↑1 ほとんどのタンクが追加弾持っていくのも理由の一つかもしれませんね -- (名無しさん) 2009-09-20 13 46 39 ↑ ああ、それもあるかもしれないですね しかも連ジともに拡散弾であることが多いし、ギガン以外のそれは強制ダウン属性だし ↑3 ミノ粉が濃いと格が増える ジオンならプロガン、アレックス、ピクシー 連邦なら鮭、けんぷは、ゾゴックあたりに気をつける必要が -- (名無しさん) 2009-09-20 13 59 23 ここだとザクキャ、爆散榴弾ででます。 拡散と同じように、敵の混戦の中やビル郡の中の敵にぶち込みます。 ただ、効果としてはデータがないのでよくわかりませんが。 効果の検証、求む。 -- (名無しさん) 2009-09-20 17 07 57 粉ありのせいなのか、編成が乱れ気味でした。 A1くらいだと、カオスですね、 あがってきたものと、下がってきたものが交わるレベルだからかな。 射2機、ドム、ドムキャって、、、 フルアンチでも、フル護衛でもいいけど、 ボイチャを使わないと、タンクなし編成の目的が薄れます。 タンクいなくても、索敵報告求む。 -- (名無しさん) 2009-09-20 17 22 11 ドムはないが… 本当に運用理解して単機での釣りができるドムタンクなら絶対ダメとは言わない。かな サブが優秀で拠点弾の射程が伸びた今なら、1機以上釣って拠点攻撃補助はない事はない。 釣りながら拠点撃ってあわよくばその1機も取れる。落ち戻りなどで2機以上釣れたら40カウントは粘って落とされるくらいの技量と理解があるのならやる価値はある。かも ただしこの板でも何度も話題になっているように「野良でゲルキャ以外の射撃機を出されただけで嫌な予感がする人」はたくさんいるのでバースト推奨。 ここまでドムタンクについて書いておいてアレだが… 僕はドムキャはオススメしない(爆) -- (名無しさん) 2009-09-20 18 32 26 ここはラインをあげやすそうなので、格闘機はいい仕事ができると思います。 -- (名無しさん) 2009-09-20 18 40 42 質問なんですけど、ザクキャノン出したときに拠点固定タンク(ガンタン拡散)が相手にいたときは動対処すればいいですか? ・味方に 敵拠点 タンク 発見 戻れ で敵タンクが拠点攻撃に出るまで立て篭り戦にした方がいいのか、 ・橋の下から拡散避けつつNL砲撃した方がいいのか迷います。 NL場所を確認しなかったがために、キーパーされてて、時間ギリギリで拠点壊せたもののモビ戦分で負けた感じでした。 PS:赤ロックでも角度つければ固定キーパーは避けれますか? -- (Aクラです) 2009-09-20 19 21 00 ミノ粉利用しての右ルートは開幕から歩いて左に行かないとバレるのでとても時間がかかりました 素直に茶ビルまで走るるが吉かもです -- (名無しさん) 2009-09-20 19 49 11 ミノだからって歩かないといけない事はない -- (名無しさん) 2009-09-20 19 59 50 ミノ粉でも開幕はダッシュして移動した方が いいと感じに展開できました。 リボーだと、タンク護衛なら 左ルート砲撃地点の茶ビル付近。 アンチなら中央ルートの見晴らしのいいところ。 敵機を視認してからは歩きメインでいく、と。 -- (名無しさん) 2009-09-20 20 15 20 教えて下さい。 ここでキャンプにはいると、勝率が悪いです。 拠点まで引かないで、森林公園ぐらいで防衛戦を張った方が良いのでしょうか? それから、このマップでキャッチするときのコツというか、どこら辺で体制に入ればいいんでしょうか? 拠点の先端に陣取ってふわじゃんしていればキャッチできますか? -- (名無しさん) 2009-09-20 22 29 40 リプレイやその場での微調整で研究しましょう。 敵がどこから撃ってくるかにもよる。そしてできるなら斬り払った方が長持ちしますよ。 -- (名無しさん) 2009-09-20 22 37 09 ココでの連邦側キーパーはフワジャン不要なんです~げ~~楽です。 しかもザクキャ拠点弾はダメ低いので更に楽。 ザクキャは斜角調整が時間が掛かるからNLに向いて無いからね。 赤ロックでも角度上げれば避けられるけど、NLより時間が掛かるしね^^; やっぱ6×6はギガンの方がいいみたいだね。 -- (名無しA) 2009-09-20 22 41 21 リボキャンプは何度かやって、自分は勝率高いですね。 拠点まで引かないで、森林公園ぐらいで防衛戦を張った方が良いのでしょうか? これ出来てないと何も出来ずに拠点落とされて負けですね^^; 1人空気読んでくれるが居ると、終始2機ぐらい釣ってくれて勝てます てか、居ないと勝てませんね^^; ただ、ポイントはCぐらいしか取れてないことが殆んどで申し訳ないです。 ジオン側キーパーは成功率2~30%ぐらいで自分も教えて欲しいな。 -- (名無しA) 2009-09-20 22 58 33 ガチ編成しても、焦げ、高座の武器がマシB、バズとか、 もうねぇ・・・編成でガチでも、武器の選択でテンション下がるとは、思わなかったわ。 後、焦げ、高座のセッティングが装甲とかやめろ!! いい機体性能をセッティングや武器選択で台無しにする行為は辞めろ!! こんな奴は、素ザク機動4で1落ちA安定するまで、乗るな!! -- (名無しさん) 2009-09-20 23 33 35 拠点にすぐ戻れる範囲内でラインを張りAPが危なくなった機体から交代で回復に戻るイメージかな? -- (名無しさん) 2009-09-20 23 40 24 どこでも一緒なのは敵タンクが居なかったら拠点裏で遊んでられる。リボーで敵タンク居てこもるなら山の二段目?がラインかなかな。そこで二機並んでクラ弾幕してるだけで敵は困る -- (名無しさん) 2009-09-21 00 14 16 キーパー。 丘から撃たれてる時は、拠点の前の角を庇うようにジャンプしてる。 上に乗ってても(キーパーに)当たらないけど、落ちた途端に当たるから 初めは角から落ちてフワジャン位置のアタリをつけると良いかも。 ダブデより楽だと思う。 -- (名無しさん) 2009-09-21 02 37 51 >ザクキャ 仕方ないんだよ・・・野良だと、自衛能力が高い機体じゃないとどうにもならないことも多かったりするんだよ 護衛が信用できる状況なら、そりゃギガンの方がいいんだけどね・・・ しかしザクタンクはすっかり白緑ともに見かけなくなったな -- (名無しさん) 2009-09-21 03 15 36 ↑ 66だとギガン鉄板な気もするが確かに俺も自衛を考えてザクキャにすること多い。 それ以外にここは変に高低差があるマップだからピョンピョン飛び回るためにザクキャ選ぶことも多いかな。 そういえばここの連邦拠点ってザクキャで密着して弾当てられるって昨日まで知らんかった。高さ的に無理だと思ってた…ギガンやタンクでも密着砲撃ってできるの?ミノ粉なら一応ありかと思って…連邦でプレイしててミラー部の底をこそこそ歩くザクキャに全然気づかなかったorz -- (名無しさん) 2009-09-21 05 51 18 ↑2 昨日、一昨日、8戦中4戦白タン、1戦マカクでした(Sクラス) -- (名無しさん) 2009-09-21 09 10 53 >密着砲撃 バンナム詐欺の被害者参上。 敵拠点、後ろ側の中央・地上からがやりやすいと思うよ。 -- (少々将) 2009-09-21 09 19 43 ギガン1択もあきるだろうし、、 白タン燃え弾ででますよ。 ただ、他よりポイント少ない気がする。 -- (名無しさん) 2009-09-21 09 56 30 自分もリボじゃあザクキャを一番多く乗ってます、すいません^^; だから、キーパーされた時のキツ差は良く分かるので書きました。 白タンは悪く無いと思いますよ、まず2発ともキーパーされる事無いしね マカクはキャンプ用にしか使って無いです。 -- (名無しA) 2009-09-21 18 50 39 ここではギガン1択ですね、ほぼ。 機動5で飛び回ってます。 ファーストは左ルートの茶ビル付近、 セカンドは前線の様子をみつつ、 中央ルート、といっても茶ビルの横付近、 隙間から地上でロック取れる地点から。 …ご無沙汰してたMS弾だったですが、 命中率が上がった。なんか当たる率が高いです。 -- (名無しさん) 2009-09-21 19 27 53 低コ近が2機出てくれればザクキャにして、前に出ながら撃つことも視野にいれてやってます。 3護衛になってたり、低コがアンチ側に回っていれば別ですが。 -- (名無しさん) 2009-09-21 19 35 21 F2ダメ?青4枚ミサボ、80マシで出ますが左ならプロガン、カスの嫌がらせは出来ますよ。落とすのは大変ですが。 -- (名無しさん) 2009-09-21 21 24 41 ↑2は低コがダメとかという話では無いです。 理想は3アンチに対して2護衛でタンクを守りきり、拠点も落とすという形ですが、中々そうもいかないですよね。 ですから、タンク1落ち覚悟で前に出て拠点を撃ち、2ndを楽にするというわけです。 ザクキャなら拠点への接射・裏に回りこんでの射撃が出来ますからね。 その際に「ここまか」を打っても守ろうとしてくれる方がいるので、なるべく低コの時にやっているというだけの話です。 F2は良い機体ですよ。 護衛でもアンチでも機能します。 護衛側で中バラ・高バラのカス・プロを落としたければ素ザク赤1ですかね。 自分はこれにミサポをつけて2機捌けるようにしてます。 -- (名無しさん) 2009-09-21 22 31 09 なんだろう、連邦ではフルアンチが 流行っているのかな? 本日4回ほど連邦フルアンチに遭遇。 うち3回はタンクあり…。 前線が押されて後退するのは判るが、 開始直後から拠点に移動、お座りタンクでした。 はて??? -- (名無しさん) 2009-09-22 16 51 24 〈ここまか〉毎度、かつ何度も打ってたからタンクにまかせてアンチ専念してたら、拠点1落としギガン4落ち。 マチ中にトイレ行って階級確認しなかった結果がこれだよ 護衛組も困っただろうに -- (名無しさん) 2009-09-22 17 36 15 F2はやっぱり高バラ格への不安感があるね。ダメではないけど。 ↑ そういう時こそレーダーやゲージ差見て、VSCでフォローしてあげないと。 ルート指定、無理するな、よろしくetc…相手が聞くかどうかはわからんけど マークでカルカンタンクの気配を感じることはできたと思う。 でもAクラだとここまか打っても普通に護衛来たりしない?w -- (名無しさん) 2009-09-22 18 56 34 みんな素直な子達でねぇ セカンドを守りに行ったら〈ここまか〉二回打たれたのよね。こっち1枚で向こうはアレックス、駒、遅れて指揮ジムだったから逃げたwごめんね リプ確認したらずっと左ルートカルカン。アレックスと駒はずっとガラス面とビルを行ったり来たり ミノ粉有りの日だったからステルスタンクやりたかったみたい。ルート指定も開幕だけだったし、まさか4落ちしてるとは -- (名無しさん) 2009-09-22 19 28 48 アレックスとカスが待ち構えているのに、特攻では4落ちしますね。釣っていたなら、問題なかったと思いますけど。F2は、出来ればアンチでなく護衛が良いと思います。低コストは基本的に護衛、高コストはアンチ。個人的な意見ですけど………。 -- (Aクラス中の下の実力者) 2009-09-22 20 30 39 ↑ すいません、駒でしたね。訂正します。 -- (Aクラス中の下の実力者) 2009-09-22 20 33 31 護衛低コ・アンチ高コの意識は間違ってないと思いますよ。 ただその考えでいくなら、相手側も護衛に高バラは来ないわけですし、何よりF2にはミサポがあるんで高バラが来てもあまり問題に感じません。 まぁこれも個人的な主観になってしまいますけれどね。 -- (名無しさん) 2009-09-23 00 03 51 ここではドムドム団は迷惑でした。 -- (名無しさん) 2009-09-23 21 04 12 たしかに連邦で出るとドム系にはコスト献上してもらったが… どうしても出したいならせめてマシ持てるトロだろう。これを味方に引いたら俺だったら萎えるな と敵ながら思った -- (名無しさん) 2009-09-23 22 11 25 酷いのはAクラス4バースト。ドムキャノン、ゲルググキャノン、ハイゴック、ザクスナイパー1という、前衛餌にしますよ編成。勝てませんよ…… それを現大佐、元少将がやるんですもの。ちょっと待ちなさいよ、シンチャテロも出ますよ シンチャテロするより勝ち狙う為に生かせと言われても、勝ち狙うように生かされないと生きない編成ってどうなの? ですかね最近のAクラスは 高ゲル安定期が懐かしいです とりあえず佐官の方はマシ持ち近を練習して、前衛の枚数になりましょう。そうしたら勝率は上がりますよ -- (名無しさん) 2009-09-24 02 46 04 遂に11月1日、8v8、ミノ濃50がありますね。編成とかどうなるんでしょうか。 タンカーとしてはかなり気になる所です、やはり…ギガン青2 焼夷弾 ザクキャノン青1 パンチ ビックガン ダブルタンク戦法が主流になるんですかね? -- (ヒーン少佐) 2009-10-21 05 32 47 有効な時もあるだろうが主流にはならんだろw ここは建物が低いから弾の出所がわかりやすいよ。 -- (名無しさん) 2009-10-21 07 30 30 焼夷弾と青1の理由は? ギガンの焼夷弾は1発ダウンって知ってるかい? あとザクキャはなぜ青1なんだ? 戦術を絡めて説明お願いします。 -- (名無しさん) 2009-10-21 07 46 48 ギガン→敵タンクや護衛に焼夷弾を浴びせて前衛援護 ザクキャノン→右ルートに回り込んで拠点攻撃 その後ギガンも右に行きつつ焼夷弾ばらまき拠点攻撃に移行 みたいな感じですが駄目ですかね? -- (ヒーン少佐) 2009-10-21 09 21 31 ザクキャが右ルートに回り込む利点がわかりません。 いくらミノ有りと言っても右ルートは確実に目視で発見されやすく、ギガンが燃え弾打ってる時点でダブタン発覚。これだと自軍前衛が敵前衛に対して実力同等以下だと戦線が瓦解すると思うのですがいかかでしょう? -- (名無しさん) 2009-10-21 12 24 40 ↑追記します 燃え弾での前線支援ならマカクの選択肢もあるのでは? ギガンの良さである安さと一発よろけの拡散弾を外してコストアップ+単発発射の燃え弾を出すのなら、より広範囲にバラまきNLも出来、コストアップの無いマカク燃え弾が良いかと。こちらは約1カウントリロードが長いものの1トリガー全弾発射なので、1トリガー1発、3発打ち切りのギガンと比べても悪くなく圧力ではマカクの方が上であると思われます。 -- (名無しさん) 2009-10-21 12 40 50 ひーん少佐 焼夷弾が1発ダウンだから格で噛み付いても ダウンさせられて困るんだが(以前困った経験が…)。 -- (名無しさん) 2009-10-21 13 02 28 左ルートでタンクはいつも通りの拠点攻撃 ただし、若干引き気味に。 その裏から見つからないようにコロニーミラー下から、、、 拠点裏側にドムタンクでしたー作戦。 ダメかなぁ。。。 -- (名無しさん) 2009-10-21 19 31 05 むしろ連邦さんのダブタンに注意したい所 向こうは中央リスタでステージの真ん中までステルスし易い -- (名無しさん) 2009-10-21 20 20 46 この前、ドムで出撃したらバグりました。 -- (名無しさん) 2009-10-24 08 21 52 上のコメント関係ないやん -- (名無しさん) 2009-10-24 08 23 00 話に入ってすいません>< ジオン軍のMASATOですけど、、 リボ・コロニーで狙撃って結構つかえるんですか? -- (MASATO少佐) 2009-10-24 21 56 03 リボ・コロニーで狙撃は両軍とも、かなりの腕が必要です。 野良で狙はやめた方がいいです。 -- (将) 2009-10-25 00 46 55 ↑2 ちゃんと上読んでから質問しような? ちなみに狙撃使いたいならリボーでは出撃しない事だ。トレモ行け。出したところで援護なし 番機指定 叩くぞ! は覚悟しろよ? -- (名無しさん) 2009-10-25 00 57 04 ↑3 貴方がどの程度のスナ使いなのかは知らないが一応参考に。Aクラ66バースト以上前提で 障害物の関係上護衛側は難しいのでアンチ側で活躍することになる。 射線が通るのは右から右&中央、左のビル上から中央&敵拠点。拠点お座りスナはおすすめしない。中央の小山(?)を盾とする敵タンクへの狙撃が無理だから。旧スナJSでも届かない。 一点に居続けないこと。動き回って。左はビルを盾としてやってくる近格に噛まれやすく孤立しやすいので注意。 おすすめはゲルJスポBノーマルor機動1。スポBは開けてる所で追ってくる大抵の近格なら撃破or釣りができる。 でもね。悪いことは言わないからやめとけ。88なら許してくれると思うけど、下手に砂やるよりアッガイたんの方が強いし使えるwwwww -- (永遠の大佐) 2009-10-26 20 22 21 追伸 駄文すまない。自重する。後退する。 -- (永遠の大佐) 2009-10-26 20 37 31 タンク護衛する際の理想的な陣形は皆様はどう考えてます? -- (名無しさん) 2009-10-29 23 15 39 ベタであればタンク前方に前衛が横陣、えんげつ(なぜかry 魚鱗でもいいと思うがそれだとタンクのスピードに合わせるから展開遅いからあまり好きではない 味方が強ければ鶴翼で挟み込めばいいと思うが最近は護衛があてにならないので却下 タンク護衛、アンチともにブースト吹かさないで歩くんだぜ…嘘みたいだろ… -- (名無しさん) 2009-10-29 23 34 00 ↑そんな奴おらんやろ~。 -- (名無しさん) 2009-10-29 23 54 34 サブカで出た時、1回だけそういうことがあった。でもその時マチしたのは下士官だったからしょうがないかと思った。自分だけブースト吹かしてカルカンになってたし…。 尉官以上ならそういうこともあまりないんじゃない。 -- (くれない) 2009-10-30 02 14 05 話し変えますが、ダブタンの代わりにギガンバズリズBはどうでしょう。ミラーから密かに拠点裏からなんて。バレたら死亡確定ですかね。 -- (名無しさん) 2009-10-30 08 22 56 ↑ それなら、ミラー面に装甲MAXマカク置いて、後ろからバズリスBでウマーした方が勝てる気がする。 フルバースト限定で。 -- (名無しさん) 2009-10-30 08 46 17 やはりバースト推奨ですね。バズリズは味方を餌にするから、好きではないのですが、勝つためにはそれもありですかね。サイサはポイントは取れても中々勝利に貢献しづらいからやっぱり遠慮しときます。 -- (名無しさん) 2009-10-30 09 10 10 遠慮ではない、自重だ -- (名無しさん) 2009-10-30 12 28 43 基本的に奇策はフルバー 野良ではガチ戦術 何度も言われているけど野良では意思疎通がしにくいし、奇策は意思や戦況を伝えられないと成功する確率が極端に低くなるから。 ガチ戦術はほぼ皆が理解しているため「あらかじめある程度の意思疎通ができている状態でスタートできる」と言えるから野良では推奨される 逆に奇策は対応策が知れ渡ってない場合が多いのでフルバーでやると成功率が高い。 相手が混乱しているがこちらは予定通りでボイチャもできるので混乱なし という状況を作りやすい。 仮に相手がフルバーだったとしても開幕はガチを想定して展開するはずなので多少の混乱はある。野良の場合と違いボイチャできる分立て直しは早いはずなので序盤で優勢な状況を作っておく必要はあるが。 このステージに限った話ではないけど奇策とガチについて意見を書かせてもらいました。 以上を踏まえてフルバーでダブタンなりバズBサイサなりミノ潜行なり試してみたら良いと思いますよ -- (名無しさん) 2009-10-30 14 16 53 ザク改の起動4でミラー行くと被弾さけられるよ -- (名無しさん) 2009-10-30 20 47 15 そーゆー安易なアドバイス(?)は控えましょう。 タンクもミラー面に下りているとは限らないし、そもそも 被弾がない≠貢献 ではない 実際ミラー上が戦場になる事はそう多くないでしょう? それにわかってる近乗りならホバーとタイマンになったって置きグレや偏差でガシガシ削ります って釣られたのか?俺 -- (名無しさん) 2009-10-30 22 42 23 昨日は自分メイン連邦で出撃しましたが悲惨な状況でした。開幕誰もブースト吹かさないからアルの家で1人でポツンだし。ダブル砂って戦術ありましたっけ?見事にゲージ飛ばされました。でも最後ジオンで出たら完璧な布陣で、自分タンクでしたが見事な魚鱗の陣形で敵アンチが目の前をうろうろしてましたが噛み付かれることなく拠点を落として敵を山の向こうに押し戻して勝ちました。 -- (名無しさん) 2009-10-31 06 37 27 日記は… ってまた釣りか? -- (名無しさん) 2009-10-31 08 08 41 このところ連邦は酷い気がするのは気のせい?おかげでジオンカードは勝ちが増え、連邦カードは涙目。Aクラスだけの事かな? -- (名無しさん) 2009-10-31 08 30 51 話しに入りますが、リボコロではイフリートってアンチですよね?出される方によっては護衛に行ったりする方もいるんですが、よく改に乗る私としては戸惑う事が多いので皆さんからの意見を聞きたいのですが………。 -- (Aクラス中の下の実力者) 2009-10-31 09 50 53 ↑ 1 気のせいじゃないよ! 僕も同感です! -- (名無し) 2009-10-31 10 12 28 極論だが イフリートは護衛でもアンチでも不要 と自分は思ってる 連邦で出て相手にイフリートいると美味しすぎ -- (名無しさん) 2009-10-31 10 25 19 イフはメイン・サブ共に簡単によろけやダウンが取れ、複数を捌いたりカットに徹したりと護衛でも機能する。 が、高コ機体は基本的にアンチだね。 それにバラけるショットガンは連邦護衛の陸ガンマルチに対抗して偏差をしやすい武装なんで、使うならアンチにしてもらいたい。 まぁケンプ護衛なんてのも見かけるご時勢だし、Aクラスではよくあることだよ。 -- (名無しさん) 2009-10-31 11 15 33 連邦で護衛した感想。イフは大して脅威じゃない。単騎ならケンプが恐怖。マンセルイフができる格闘と来るとかなり恐怖。 -- (名無しさん) 2009-10-31 17 58 14 たいていの機体に言える事だけど、わかってる人が乗るか、研究も何もしてないけど支給されて嬉しいから出した人が乗るかで怖さは大きく変わる って事か ばーうp直後に出てくる新機体はたいてい後者だから新機体イラネみたいに思っちゃうんだよね。 乗り手によっては怖い機体なので護衛でもアンチでも不要は取り消します。 -- (↑3の者) 2009-10-31 18 19 09 ってかここんとこ連邦編成荒れ過ぎ。インフ護衛に出そうがアンチに出そうが残りがマトモなら勝てるよ。 -- (名無しさん) 2009-10-31 21 55 56 御意見ありがとうございます。確かに、イフリートが1機いても他にマシ持ちがいてくれれば何とかなるんですけど。とはいえ、2機や3機で出られるとファーストアタックの時に護衛かアンチか困ります。イフリートは偏差しやすいので、出来れば右側アンチで敵護衛に先制して欲しいです。 -- (Aクラス中の下の実力者) 2009-10-31 22 13 57 うん 編成にマシ持ちが1機しかいませんでした とかだったらイフリートとか関係なく負け確定だからね。 そーゆー現象が結構な頻度で起きるから怖い。 ザクキャが必死になってクラでカットしてやってるのとか見ると涙が出てくる -- (名無しさん) 2009-11-01 02 43 51 ブルー入手したので今日からジオン出撃ですが、ジオンは連邦ほど編成荒れてないので少しホッとします。戦術もガチが多いのでタンク乗りとしてはありがたい。でも今日は日曜日でリボ初のミノ8ですから、編成荒れるのは覚悟しないと。 -- (名無しさん) 2009-11-01 07 40 22 いやいやいや 上にあるようにジオンはマシ1機とかマシ無しとかあるからタンクは辛いよ。せめて時間ぎりぎりまで選択待って、余りにも酷いようならアンチもできるように追加弾とか、格闘持ってって自衛上げるとかした方が良い ちなみに枚数有利のはずの味方アンチが全滅、なんてのもデフォなので釣りタンも無駄死にになりやすいから気をつけて。 -- (名無しさん) 2009-11-01 11 37 42 これが底辺の会話か。 イフリート青4ショットCB2機による左護衛はガチ。 これが分からない残念は否定をまずやめなさい。 それが残念から抜ける為の最初の一歩だから。 トレモ5回使えば武装はここまで出るし、それから実戦投入すれば明らかに評価が変わる。 トレモでポイント取れない子は、セッティングNでショットA2発タックルしてれば軽く800p越える。 無駄に実戦でポイント取れずの勝てずにいるより建設的。 -- (名無しさん) 2009-11-01 11 38 29 質問なんですがアンチにいって右ルートにタンクがいなかった場合、 どのようにしてVSCでうっていますか。 自分は〈右ルート〉〈タンク〉〈撃破〉と打ってるんですが。 -- (やっと少佐になれた) 2009-11-01 11 53 31 ↑ 右ルート 前衛 前衛 左ルート タンク 索敵報告求む タンク 撃破 だと瞬殺したのと勘違いするぞ。 -- (名無しさん) 2009-11-01 12 04 17 ↑1↑2 ナイススルーwww -- (名無しさん) 2009-11-01 12 40 42 せっかく追加されたんだし【右ルート】【全機】【前衛】【左ルート】【タンク】【索敵報告求む】でも良いかもしれませんね -- (名無しさん) 2009-11-01 12 42 53 タンクマンから1言。 サイサ出さないで。お願いですから。 -- (名無しさん) 2009-11-01 20 05 44 そんなことないと思う。 昨日の戦闘で連邦のアンチにいったサイサが1220ものスコアをだし、ほとんど自分一人で勝ってた。 (前衛は大変だが) -- (名無しさん) 2009-11-01 20 23 02 野良で、味方がサイサBBだったので、ギガンのつもりがマカクにチェンジ。 でも野良専の自分は、マゾ・マカク+バズリスの仕方が分からなかった。 orz 勝てたけど、すいませんでした。 -- (名無しさん) 2009-11-01 20 50 30 さすがは一撃必殺砲。敵だけでなく、味方からも悲鳴があがるとは。 もし、コレが味方にも当たるようにアップデートされたらエライことに。 -- (名無しさん) 2009-11-01 22 02 05 後出しダブタンとバズリスBウマー少将をセットで引いて えらい目にあった。 アンチや前衛の枚数不足など頭に無いのね -- (名無しさん) 2009-11-01 22 47 44 バズリスでマカクを餌に敵護衛を焼き払った。マカクは無傷で余裕で拠点落として味方の援護に。ポイント800超え勝利するも自己嫌悪に陥るのは自分だけ?日記みたいですまない。 -- (名無しさん) 2009-11-01 22 55 45 ↑ 勝てればいいよ。 ここみたいな直線のあるマップでバズリスBはガチ。 そこでポインヨ取れない~、とか言っちゃう雑魚はイラネ。 そもそも護衛って大半がポイント取れない。 だからそこでバズリスにポイントが集中しても気にならない。 ポイント欲しかったらアンチ機体出してアンチに行く。 これが並以上の将官の考えだよ。 -- (名無しさん) 2009-11-01 23 46 25 test -- (名無しさん) 2009-11-01 23 47 01 Sクラス、または経験積んだ大佐クラスなら、 このMAPでサイサBBが出た時点で、 野良マッチでも狙いは理解してるはず。 護衛のザク改やF2はアレックスに斬られながらも、 レバーを前に押し続け、「ちゃんと焼けよ?」と。 稼働初期から言われてるけど、 勝利への貢献度とポイントは違うよ。 -- (メイン少将サブ大将) 2009-11-01 23 58 42 勝利への貢献は良いがBBへ貢献したいわけではないw -- (名無しさん) 2009-11-02 12 31 33 ↑ 自衛力も要求されるサイサバズBの為なら多少餌になってもいいだろう なのにそんなことお前はボーダーブレイクの方が合ってるんじゃないか? -- (名無しさん) 2009-11-02 12 43 12 今日タンクで出たけど橋は壊すべきだね、それと!!護衛する前衛さん、タンクより後ろでマシンガン撃っても意味ないですよ! 行くなら行く、行かないなら行かない。ハッキリしてくれないと攻めも逃げも出来ないです、あとドムの即決やめれ -- (名無しさん) 2009-11-02 16 26 44 確かに…何かドム多くない?昨日、一昨日と良く見たんだが…日曜日だから? -- (名無しさん) 2009-11-02 16 42 22 『オレだけのドム』 を目指して ドムタンク以外の運用法を模索する雑魚が結構沸いてる それと砲撃地点という考えが分かっていない雑魚も増えた タンクもタンクでビルの上で撃ったらカットされにくいのを分かっていない 一時期マッチング良くなったかと思ったけど、土日は相変わらずでした -- (名無しさん) 2009-11-02 16 55 49 あとカルカンタンクも増えた。 66で何故か相手のアンチが4人。護衛は2人。 「左ルート」「劣勢だぞ」「無理するな」 って言ってるのに突撃して死んでゆく。 終わったら「おつかれ」を連呼しやがる。 「おつかれ」じゃねぇよ。頭数ぐらい勘定しろや。 -- (名無しさん) 2009-11-02 17 05 20 ↑×2 まずはビルの上で撃っててもいいと思う。 護衛次第でもあるけど、比較的狙われにくいし。 ただ、一度噛みつかれたら、再び登ろうとしないでくれとは思う。 -- (名無しさん) 2009-11-02 17 56 44 最近の護衛は酷い -- (名無しさん) 2009-11-02 17 59 18 愚痴の流れですね 愚痴ってゆーか初心者アドバイスとして 他の味方が攻撃してる敵からはロック外して他の敵を見よう 一見敵がよろけてたり斬られてたりして当てやすそうだから自分も攻撃したくなるけど、いわゆるサッカーって状態になってしまうから 枚数有利で敵を完全に抑える自信が無いなら【前衛の】枚数を合わせよう 例えばこのステージでアンチに向かったとする。中央の山辺りで目視やタンクのシンチャなどで敵の布陣がわかるよね。右ルートが2機(護衛が1機)でこちらのアンチが2機だったとしたら、タンクを完全に抑えられる自信がないなら左ルート(護衛)にスイッチしようって事。 このステージの砲撃ポイントは山からならどちらもそう離れてないから空気時間もわずかで済む。 もちろんほとんど撃たせずにタンクを撃破できるならそのままアンチでも良いが。 あと敵護衛を2機がかりで瞬殺とかは一番ダメなパターンなので気をつけて。その敵護衛がリスタでアンチに加わって今度はこちらのタンクと護衛が瞬殺されるから と、ある程度わかってる人には「なめんな!」と思われるような基本の動きを書いてみた。 これをわかってない謎な動きのジオン兵を結構な頻度で見るもので -- (名無しさん) 2009-11-02 18 03 45 色分けや搭乗勝利数表示で より一層酷い連中が浮き彫りになった タンクが酷い、護衛が酷いはその副産物に過ぎない 酷い味方は、タンクだろうが護衛だろうがアンチだろうが酷い それだけのことよ そう言う時は、独り立ちできるザク改や高ゲルに乗ってアンチへ行くしかない 戦術がなくなって、一騎当千で頑張るしかなくなる 自分のためになると思ってこの苦行荒行を乗り切るしかない このマップはまだそれが出来る分だけマシ 北極はマジ無理ゲー 緑のS2以上にさえ上がってしまえば、まだまともな勝負になるからそれまでの辛抱さ -- (名無しさん) 2009-11-02 18 07 23 44で遠決定後に射を決定する少将は頭がおかしい -- (名無しさん) 2009-11-02 19 50 08 いきなりドムB出してドムタンク失敗の大佐もおかしい。 -- (名無しさん) 2009-11-02 20 12 56 機体支給があるから勝利に対する姿勢も良くなると思ってたのに…射カテって必要かな?勝てればポイントはいらない、ポイント欲しい奴はトレモしろ。 -- (名無しさん) 2009-11-02 22 05 33 頑張って緑S2まで這い上がってこいよ お前等みたいな着眼点を持ってる連中は、それなりに歓迎するぜ それが無理なら諦めるしかない 残念共が上級者引かなくなって余計にタチが悪くなってるからよ 特に800勝前後の黄色将官はかわいそ過ぎる サブカで出たら酷い目に遭ったぜ 別にS剣でループ出来なくてもいいんだよ マップ的に、鮭使って手堅くBRで削ればいいんだよ 高ゲ乗れないならザク改Dハングレでもいいんだよ なのにどうしてそこで赤鬼を選ぶのか どうしてタンクの代わりにドムを選ぶのか 赤鬼選ぶなら旧ザクにしてくれよ・・・ ドムタンクするならドムキャにしてくれよ・・・ マジで意味わかんねー・・・ -- (名無しさん) 2009-11-02 22 23 45 格とか射に突き抜けてる黄色S1は味方にとって脅威!! やっと拠点落としたと思ったらコッチのゲージは半分も残ってないとか 敵タンクに釣られて隅っこで遊んでるとか・・・ -- (名無しさん) 2009-11-03 00 01 07 タンクで2機釣っても敵ゲージ減らずはデフォ -- (名無しさん) 2009-11-03 01 00 39 タンク使いから一言。護衛するなら茶ビルの前は基本ですが、自分は茶ビルの左側に粘着して砲撃したいのでライン上げられないなら茶ビルの右側にラインを張って欲しい。噛み付かれたら前に出て、護衛が裏から噛み付けるようにしますから。 -- (名無しさん) 2009-11-03 07 25 28 ↑ それザクキャ限定な ギガンで同じようにされたらたまらん ギガンなら茶ビルの右から撃つ そっちの方が格を抑えやすいから、その時は後ろからカットでいい タンクも身体を張る時代だから、タンクのAPもうまく利用して欲しい -- (名無しさん) 2009-11-03 11 08 02 ていうかさ たまにギャン使ってる奴何? -- (名無しさん) 2009-11-03 11 55 48 そうそう、ギャンも見るな。あと鮭が最近は見ない…。すまないが、あのゲージ、緑にするにはどうすればいいんだ? -- (名無しさん) 2009-11-03 12 22 31 ↑すまん、書いてあった。後退する。 -- (名無しさん) 2009-11-03 12 26 56 ギャンは サベS・機動うp・ニードル射程うp・ボンプ変更 マップ相性は変わらず鮭のが上だけど、ギャンも平地に強くなった印象 それで使ってみる人が増えたんじゃなかろうかと 俺は鮭アンチが性に合うけど、格マスターが言うにはギャン護衛も中々いけるとか -- (名無しさん) 2009-11-03 12 58 15 もうゲルJは乗らないで、ガンタンク中央ブラインド砲撃に無力 拠点砲撃しても、拡散弾でやられてるし・・・・ 遠なし、狙ありは負けフラグです。 -- (名無しさん) 2009-11-03 14 02 40
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目次 1.母星ベーター星 2.文明の実験 3.指導者の群像 4.一つの対立 5.ベーター星からの脱出 (1987年12月17日の霊示) 1.母星ベーター星 さて、いよいよ今までチラチラと匂わしながら、はっきりとは言わなかった事実。今から三億六千万年の昔に、人類がべー夕ー星、ベーエルダ星という星を脱出して地球に来たと、まあ、こういうふうに言っておるけれども、どんな状況であったのか。それは、一体何だったのか。まあ、このへんの疑問はあるわね。 まあ、みなさんは天文学はわかんないから「あの辺だよ」なんて指差したってわかんないと思いますけれどね。えー、地球からは、そうだねえ、まあ結構離れたところです。そこから来たんですね。これは科学文明としての宇宙船で来たわけです。 だから飛行時間はどのぐらいかかったかね。詳しくは覚えてませんが、えー、十年近くかかって来たような気がしますよ。ぼくの記憶ではね。地球時間でいうと、十年ぐらいの歳月で渡ってきた、地球までね。そのように思います。 それ故、大変な長旅であって、このへんが後にモーゼを指導するときに大変役にたちましてね、モーゼの出エジプトのときの指導にね、大変役にたちましたね。これには十年もかかって、何と言いますかねえ、宇宙船で船旅してきた。この間に人びとを、要するに納得させるのは大変だった。彼ら、もう「帰ろう、帰ろう」と何回言ったかね。カエルじゃあるまいし、ケローケローケローケロー言ってた。 ぼくは「必ずあるから。縁とね、縁と酸素、それから水に囲まれた美しい星があるんだ。これは調査済みなんだ」って言うけど、みんな「そんなのあるか。ケローケロー」ってね、ずいぶんうるさかったですよ。マゼランみたいなもんだね。マゼラン部隊みたいなもんで、だから指導者がよほどよくないと来れなかったね。だけどまあ、指導者が優れていたから来れたわけですね。 その母星にあったのが、まあベーター星と言われておるわけですね。この星はどういう星かっていうとね、大きさは地球の、そうだな、直径で、地球の約十倍ぐらいの星です。十倍ぐらいの星だと思っていい。 まあ、地球の十倍ぐらいで、人口でいうと別れてきたときの人ロっていうのが、どのぐらいいたかね。うーん、まあ人口自体はそう多くなかったね。えー、現在の地球ぐらいかね。五十億ぐらいだったと思いますね、人口はね。そのうちの、五十億の中の六千万人が出てきたわけですね。まあこういうふうになったわけですね。 このべーター星の特徴っていうのは何かっていうとね、地球は水が七、陸が三というようになってますが、陸がもうちょっと多かったね、ベーター星はね。陸が六ぐらいかな。陸は六で水が四。まあこのぐらいの環境です。そして、山もありますが、山も高くてせいぜい千メートルぐらいの山で、割に平坦だったんですね。平野が多かった。高くて千メートルぐらいの山である。そういうことで、平坦なものであった。 そして海はどうかっていうと、海はね、塩辛くないんですね。地球みたいに塩辛くなくて、淡水だったんですね。淡水湖です。海がね、淡水でできていました。淡水で、四割ぐらいの地表を覆っておった。 で、残りの部分はどうかっていうと、まあ平野が多かったわけだけども、ここにはやはり穀物を中心としたね、そうした農業地帯が結構ありました。そして地球にならっていうならば、主として南部の方が、南の方がそういう穀物地帯で、北のほうが工業地帯であったと。まあ、こういうことが言えると思いますね。そこではいろんな産業が発達しておった。 ベーター星で特に発達しておったのは何かっていうとね、ここで一番発達していたのはやはり交通機関です。この文明が発達しておって、非常に変わった乗り物いっぱいありましたし、その三億年以上の昔であっても、まだ現在それ程発明されてないような、何と言いますかね、自家用の小型機ね、小型飛行機みたいなの、こんなの飛び回ってました。それに乗ってね、えー、まあ長さ二メートルかそこらぐらいの小さな乗り物ですが、それに乗って自宅の屋上や窓からね、どんどん、どんどんいろんなところへ行っている。もう道路なんか走らずに、そういう小さな自家用飛行機で、みんな空中フワフワしながらあっち飛びこっち飛びしてた。こうぃう文明でございます。 交通機関はいろいろあって、リニアモーターカーなんかも今、開発中ですが、そういうふうに瞬時でもってものすごい距離を動くような交通網もありましたし、地下を打ち抜いた弾丸列車もありましたね。地下を打ち抜いて、ジェットコースターみたいな原理でね、シューンと下がってきてシューンと上がるようなね、こういう地下鉄、まあこんなものもありましたね。現実にね、あった。だから交通機関を中心とした文明であったと言えると思います。 そして農業地帯の方では、やはり農家もあったわけですね、今お百姓さんやってる人も、昔やってたかもしれませんね、そこでね。やっぱり農業もあったし、その中で動物もずいぶん飼ってましたし、いわゆる哺乳類、哺乳類が多かったね。ずいぶん哺乳類が多い。こういうふうに言えると思いますね。それで豚とか牛とかの原形になるものがおったんですね。 ただ、牛なんかは、地球の牛はちっちゃいね、ひとまわりね。もっと大きいんだよ、本物はね。本物の牛はもっと大きくて、五メートルぐらいあるんだな。大きな牛だよ。大きな牛なんだよ。五メートルあるんだ。何で五メートルかっていったら、人間も大きいからね。そのぐらいの牛じゃないと食っていけないから。あのー人間も、そうだね、標準サイズでニメートル二十から三十ぐらいはあります。だから牛も大きいわけだ。全体にちょっと大きいんだ、全部がね。ひとまわり大きい。まあこういうふうに言えますね。 あと、地球に住んでなかった生物としてどんなものがおるかというとね、水陸両用の生き物というのが大分(だいぶ)おりましたね、これが。たとえば、まあ魚に羽がはえとると思えばいいわ。水中で魚やっとって飽きたら、水からポコッと出て、空飛ぶのがおるんだな。こういう水陸両用の生き物がおった。これについては、地球ではまだちょっと発明ができてませんね、十分に。竜ぐらいだね、伝説の竜で、滝登って空飛んでいくぐらいの竜があるけれども、えー、水陸両用の生き物が、結構この星にはおりました。水の中におっては、時どき空飛ぶと、そういう生活だね。これも面白いわね。それから、水空両用の生き物がおりました。 あと陸地の中でも、特別に面白い生き物としてね、どんなのがおるかって言うとね、一番面白いのは、こういうのがいるよ。うーん、なんというかね、植物と動物の合いの子みたいなんだなあ。こんなのがおって、外見は動物で、たとえばうーん、どうなるかね、説明をすると、まあ恐竜に近いかもしれないが、テラノザウルスとかあんなのあるけども、ああいうものに似たものがおるんだけど、それの背中にね、果物がなるような動物がおるんだな。これが不思議だけど。あなたがた笑っちゃうと思うが、そういう、まあ恐竜なら恐竜みたいのがおって、まあそら卵産んだり、乳出したりするんだから、果物作るのもおってもいいわな。背中に要するにギザギザというか、植物の枝みたいなのいっぱいあって、それに果物がなるんだよ、背中にね。こんなのがおるんですよ、笑っちゃいますよ。その果物は、まあ柿とも桃ともミカンとも、何とも言いかねるような果物だけども、こんなのがなるんだよ。 これをね、非常に可愛いがっておってね、この動物をね。まあ全長二メートルから三メートルぐらいの、恐竜型の動物です。この動物の性格は温和なんですね。外見はグロテスクだけど。背中にこう何と言うかね、尾びれじゃないけど、ギザギザがいっぱいあって、ワニ皮みたいな背中なんだけど、ここに珊瑚礁(さんごしょう)みたいな技がいっぱいはっておって、この枝の先に果物がなるんだ。それで、だいたい草食が多くてね、草食って、草食ったものが背中に果物になってピュッとなるわけだ。こういうのがおったんですね。面白いのがね。これをね、家畜として飼っておった。時どきその動物を追いかけては背中から果物をもぎ取って食べたりするんだな。こういうことができたんですね。 これも地球にはないね、こういうものが。一度また創らないかんと、私は思ってるんだけど、面白いわね、そんなのできたら。ねえ、今度は背中にお米ができる動物とかなんか創っちゃったりしてね。まあそういうのもいたということですね。 2.文明の実験 さて、そういう文明であって、非常に文明は発達して爛熟期(らんじゅくき)を迎えておったわけですが、そこで彼らもね、まあ五十億人近い人が住んでおっていろいろやったけども、多少何というかね、文明の実験というのもいるんじゃないかということで、面白いこといろいろ始めたんですね。 全世界が同じ速度で進化しとるっていうのは面白くないっていうんで、違う進化速度つくってみないかという提案があって、それで大都会ではそういう素晴らしい交通網があるけども、こんなのに何というか嫌悪感を持つような人もいるからね、じゃあ全然そういう機械なしで生きろと、生きてみろって、そういう地域つくるんだな。たとえば、日本で言えば九州みたいなもんだけど、九州は要するに文明の利器一切使っちゃいかんと、まあこういう地域つくるんだ。それでも好きなのがゾロゾロ行くんだよな、そこへね。そこで石斧(いしおの)で生活するような、こういう地域もつくりました。 あるいは海中で住むっていうようなことね、こういう実験もずいぶんやりましてね、背中に、この海水、海水じゃないけども、淡水だが、水を分解してね、酸素をつくり出す装置、こういうの背中に背負っとって、それからパイプでロにつながっておってね、マスクかぶっとんだけども、それで自動的に水が酸素に変わるから、それ吸っていられるんだな。それで好き好(この)んで、水底に住んでおる人がおるんだな。水底人(すいていじん)がおって、水底基地つくっちゃって、そこで水の酸素吸いながら、生きとるんだな。魚と一緒に泳いどるのが幸せって、こんなのもおったね。こういう文明の実験も行われました。 あともうひとつは、今度はだいたいそういうのを見ると、もうひとつ出てきそうなものが何かっていうと、空中だわな。昔世界の七不思議って言って、空中庭園とかいうのがあったとか言われているけれども、現実にこのベーター星に空中庭園というのがあったんですね。 それはどういうようになるかというと、地上から見てみると、本当目に見えない幕ですね。幕でもって仕切りができておって、空中で浮かんどるんですね、街が。どういうふうにしておるかっていうと、まあ特殊性の、要するに何と言いますか、プラスチックでもガラスでもないものでできておる囲いをつくっとるんだな。これが磁石の反発力みたいな形で、ある種の反発力でもって空中に浮いとるんだ。そういうものが反発しあって。それで、空中であなた、下見たらもうまっさかさま、上見たら青空というようなとこ、ここで住むのが好きな人がおるんだな。雲の上で住んどるような生活だな。こういう、まあ天上界志望の人たちでしょうか。こんなとこで住んでるのがおったんだよ。空中で生きとるのがもう大好きという、こんなのがおった。 結局、文明が進んで、みんな倦(う)んじゃってね、退屈しちゃって、いろんなことして楽しもうと。新たな環境を何とかして楽しもうと。まあ、こういうことをしておったと言っていいでしょう。 3.指導者の群像 ではそうした文明の中において、指導者というのは一体何だったのかと、まあこういうことが言えると思いますね。指導者にも種類がございまして、このベーター星というところの指導者は、主に科学的指導者、それから教育的指導者、政治的指導者、宗数的指導者と、まあこの四種類に分かれておったんですね。 で、指導者、この四種類の指導者が、交替制でいろんな指導に当たると。今年は科学の年と、翌年は宗教の年、その翌年はまあ、また違った年と、こういうように循環があって、それぞれ一年間は科学的指導者たちが国を治めたりね、あるいは一年間は政治的指導者が国を治めたり、こういうことをしておったんだね。それぞれ毎年毎年、新しい、何というか、そういう支配というかね、統治というのを楽しむと。まあ政権交替の走りみたいなもんだな。こういうものがありました。 この中で、うーん、まあそうだね、宗教的指導者って何かって言うと、やっぱりそのベーター星の中における神の道を説いておった。こういうことが言える。政治的指導者は、まあいろんな統治能力が優れておった。人びとを統治する能力が優れておる。あるいは指導したりする力が優れておる。教育的指導者っていうのは、段階的に人びとを導いてね、引き上げてくる。学問的な教育、これが非常に優れておるんですね。こういう指導者がおる。 まあこの中で、しかし、やがて勢力のバランスが崩れてくるんですね。こうして、この四者で交替制で治めておったものが、だんだん力に差が出てくるんですね。統治能力に差が出る。一年交替でやっとったけれども、たとえば科学者指導と宗教家指導では、住民の人気が違うね。で、たとえば「科学の方は二年やれ」とかね、「宗教の方は半年でいいわ」とか言われたりする。こういうようになってきて、次第に勢力の均衡が崩れてくるということが、現実に出てきたわけですね。そういう事象が出現してきた。ここに一つの問題が出てきたわけです。 4.一つの対立 さてここで、その三億数千万年前に、大きな対立が起きてきたんだな。思想的に大きな対立が出てきた。それはこの科学と宗教をどういうふうに考えるかという面での対立ですね。これは現代にもあるんだけども、そういうふうに指導団を組んで交替制でやっとるうちに、宗教と科学とを全く別なもんだという見解が強くなってきたんだね。これは全く別なもんで、春夏秋冬があるように、順番に回ってくるだけであって、それぞれのものは独立である、別なものである。全然異質なものである。まあこういう見解があったね。 ただこの中に、科学者のグループの中にね、「そんなことはない」という人がいたわけだな。「そんなことはない。科学の中にも神理はある。宗教はあるんだ。神への道は科学の中にあるんだ。色心(しきしん)は不二(ふじ)なのだ。物理的法則は、神理と合致をしておるのだ」まあこういうことを言う偉い人がいたんですね。これは私なんですが、こういう人がいて、科学と宗教を対立させる立場に非常に反対した。で、「これは統合していくべきである」こういうことを主張したわけですね。 ところが、当時その四つの科学、宗教、政治、教育という指導者群団ていうのが、非常に専門化して、テクノラートって言いますかね、専門家集団に変わってきておったんだね。それで認めない、そういうことを。科学と宗教の仕切りを取るということを認めない。こういうことがあって、このへんで意見の対立というのが、非常に出てき始めたんですね。意見の対立というのが出てきた。それで、ただその調整をしていこうと思ったけれども、こうした四つの指導集団でこの世を指導していくことは、神から与えられた掟(おきて)であると、こういうふうに言われておった。それで「これを破ることは相ならん」まあ、こういうふうに言われたわけね。 そこで、この科学者でもあり宗教家でもあるという魂ですね、こういう意見に従う人たちが、離反運動を起こしたんでずね。離反、ストライキですね。「そんなのあり得ない。おかしい。新たなものは統合的見地からいかにゃいかん。科学も宗教もない。神と物質、神と科学は本来ひとつのもんだ」こういう意見、これを国内で説いておったんだけども、だんだん異端視されるようになってきた。異端視されて差別されるようになってきた。 それで次第に説得が進みましてね、「この国をそんなに、この星をそんなに乱す必要はないんではないか。もしやりたければね、そういう実験をやってみればいいじゃないか、自分たちで。他の星へ行ってやってみなさい。科学と宗教とが融合するような立場、創ってみなさい。そういう文明創ってみなさい。科学と宗教が融合するような文明創ってみなさい。やれるものならやってみろ」と、まあこういうわけだな。こういうように言われた。「やれるもんならやってみろ。よそへ行って。ここでやらんと、よそへ行きなさい。よその星でやってみい」って、こう挑戦状を叩きつけられた。 その時の指導者が、その時に、「うん、そこまで言うんなら、よし、ひとつやってみようか」まあこれがエル・ランテイーという指導者であったわけだけども、「ひとつやってみよう」というんで、もうバチバチ宇宙船団つくったわけですね。宇宙船をつくって、飛行計画つくってね、「よーし、ぼくたちは、神の心と科学の心を両方伝えるために、このベーター星を脱出して、未知なる緑の星、水の星に向かうぞ」こういう同志を募った。そしたら六千万人近い人が応じてきたんですね。五十億人のうちの六千万人。まあ、ちょっとした中国程度の人数でしょうか。その程度が応募してきた。その中には科学者が非常に多かったです、ね、科学者が多かった。けども、まあそういう人たちを引き連れて、大船団組んだんですね。大船団を組んで脱出してきたわけですね。そして新たな星を求めて出てきたわけです。 まあ、それは魂がわかれたと言ってもいいでしょう。その星ではある程度もう、進化というかね、魂学習が終わったんで、新たな魂の試練を求めて出てきたと。まあこういうふうに考えてもいいかもわかりませんね。 で、出たのは出たんだけども、まあコロンブスの航海、マゼランの航海と一緒でございまして、出てしばらくすると、みんな寂しがり始めましてね、ホームシックになって、「家へ帰りたい。うちへ帰りたい。どこへ行くやらわからないのに、ただあのとき妥協してね、みんなの言うこと聞いてじっとしておりゃよかった」って、「こんな清教徒革命じゃあるまいし、メイフラワー号に乗って出ていくの嫌だった。ああしまった」ってね、こう言ってる。 ただ、指導者は非常に賢い人であったから、そういうことも見越してね、大きな母船をつくって、その中にもう。土も入れたしね、湖もつくるっちゅうぐらいの大きな気持でね、つくって、そして動物、植物全部持っとったんですね。ノアの箱船の原型。すべての文明の原点ね、そういうものを持っておった。だからまあそういう大農場も船の中にあると。こういう状況で、人工照明をつけてね、大農場をつくっておった。まあそうして人びとの寂しさから、気をまぎらわそうとした。 そしていつもいつも、希望の原理を説いておったわけですね。「もうすぐ着く、必ず着く」みんな「もう五年たった」って言って、「もう信じられない。帰ろ帰ろ。あと何年かかるか分からんのに帰ったほうがいい」「しかしぼくの調査によると、あと五年で着くはずだ。それは素靖らしい星だ」「素晴らしい星って、おまえ見たことあるのか、行ったことあるのか」って、「いや、行ったことはないけれども、幽体離脱して霊視して来たことはある。飛んでいってね。霊の体で見てきたことがある。だから間違いない」そしたら「おまえの霊能力なんか当てにならない」と、まあこういう人もいたね。 まあだから、船団の中には一部は途中で引き返したのがおりました。はっきり言ってね。もう引き返す」って、引き返して、引き返してどうなったか知らないよ。迷子になったのもおるかもわかんない。私は知らないけどね、そういうのもいます。だけど、まあ一応大編隊で、一隻(いっせき)に一万人ぐらい乗る船で、六千艘(そう)ですかね、そのぐらいの大編隊組んで渡ってきましたね。その中では、旅の途中で死んだ人もいましたでしょう。まあいろんなことありました。 5.ベーター星からの脱出 以上で、べー夕ー星からの脱出の話もちょっと致しましたけども、こういう脱出の問題っていうのはね、今後の人類の未来史を考える上で非常に意義があるんですね。やがてこういう現象が、目の前に出てくるであろうと思われるんですね。おそらく地球からの脱出ということもありうるであろう。地球の中で魂がわかれてね、また他の星へ向けて、転生していくこともあるであろう。まあこういうふうに思うわけですね。新たなユートピアを目指していく。過去いろんな移民がアメリカヘ行ったように、ブラジルに行ったように、他の星へ行くこともあるであろう。こういうことが、私は言えると思いますね。 このベーター星からの脱出の時の教訓としてあげられることは何かというと、いくつかあるんですね。教訓としていくつかある。その教訓のひとつはね、結局こういうことですね。うーん、まあ大きな判断の時期っていうのがあるっていうことですね。妥協的に、とにかく現状でいいという生き方もあるけれども、大いなる挑戦の時、チャレンジの時っていうのは必ずあるんで、魂がもう一定以上進化しなくなった時には、思い切って環境を変えるということ、これも大事であるということね。そして、自分たちのところのユートピアだけじゃなくて、そのユートピアを他の世界へも広げるということが、宇宙全体の進化にもつながるんだということね。これは大事なことですね。 また魂にとっては、新しい経験ていうのがどれほど意味があるか、意義があるかね、こういうことを知らなければいけない。魂にとっては、新天地というのは非常に大事なんですね。ですから地上のみなさんも、同じ環境でね、同じような生き方だけするんじゃなくて、環境を変えてみて、新たな魂修行をいつも求めるような気持ね、こういう気持は大事ですよ。決して現状に甘んじてはいけないね。もっともっと自分の魂を磨く場があるんじゃないか、向上させる場があるんじゃないかと、まあこういうね、考え方は大事ですよ。もっと綺麗(きれい)な女の子がいるとこがあるんじゃないか。まあ、こんな話はちょっと違いますがね。まあこれ冗談ですが、もっと魂を向上させる場があるんじゃないかと、こういうように考えていいと思うんですね。 ただこの時に決意と、何というか不屈の、不撓不屈(ふとうふくつ)の心ね、これが大事ですね。みんなやっぱり気が弱くなってきますからね。このへんが指導者の信念が大事な部分だと、ぼくは思います。信念がないとね、物事は何事も成就しません。決断と実行ですね。これが大事ですね。だから指導者の条件は、決断と実行ですね。だから指導者っていうのは、我慢する時は我慢するけれども、いざ決断する時はスパッと決断してね、行くべき時はドンと行かなきゃいけない。これを忘れちゃいけないね。優柔不断ていうのはいけませんね。 だから、悩みの時に現状維持は結構ですが、それがいつもの現状になってしまうと優柔不断で、いつも「ああでもない、こうでもない」と、要するに、いつも「ああでもない、こうでもない。ああでもない、こうでもない」ねえ、「太陽もいいけど、月もいいよ。女性もいいけど男性もよくて、あの子もいいけどこの子もいいわ」ねえ、そんなことばかりやっておっては、魂っていうのは飛躍のチャンスを逸してしまうんですね。だから、ひとつ決断したときにね、思い切って飛び出してみる。こういうことが大事だと思いますよ。ひとつの星から脱出するのに比べりゃ、あなた、地上で決断することなんか簡単なもんですよ。ねえ、出家の決意なんていうのもありますが、そんなの大したことありません。簡単なもんですよね。 そういうもんで、みなさんね、やはり人類の故郷(ふるさと)、私たちの魂の故郷というものを振り返った時にね、先輩たち、人類の先輩たちはそれだけ大きな勇気を持ってね、果敢(かかん)に行動したということね。これに対して、大いなる尊敬の念を払わにゃいかんよ。彼らの勇気ある行動なければ、君たちはないんだよ。君たちの現在はないんだ。自分たちの先祖は、それだけのフロンティア精神とパイオニア精神だな、これを持って来たんだ。君たちは今、そのフロンティア精神持っとるか。そのパイオニア精神を持っとるか。小さな自分になってないか。つまらない自分になってないか。停滞の自分になってないか、ね。そんな遙(はる)かなる星から、十年の月日をかけてね、大船団組んで飛来して来た。この時の意気込みね。どんな気持だったかわかるか、ね。 そういう自分の魂の故郷、大昔っていうのを思い出してみなさい。そうすると、現在の自分て何て小さなことを言っておるか。姑の嫁いびりとかね、「あーボーナスが今月は二千円少なかった―」とかね、「あいつも俺より早く係長になったあ―」とかね、言ってるけど、じゃあこの大いなるべー夕ー星からの脱出というロマンからみたら、何だそんなもの、ねえ、つまらんじゃないか。もともと諸君らの心の奥には、そんな大きな理想とロマンがあったんだぞ。それを忘れ去って小さくなるな。ちっちゃなちっちゃな人聞になっちゃいけない、ね。現状を当然と思っちゃいけないよ。人類の歴史を二千年だと思っちゃいけないよ。もっともっと古いんだよ。もっともっと古くて、いろんなものが、いろんな経験を経てね、現在に至っておるんだ。 そういう原点に帰るということは、いつの時代でも大事なことだとぼくは思うよ。原点を知るということね。人類の原点は、結局フロンティア精神、ね、パイオニアスピリッツ、ね、こういうことだったんだ。君たちも決してそれを忘れちゃいけない。これから未知なる世界への探険に出て行くんだな。今までないような世界観、これの確立、それを広げていく。こういう仕事をしているんだけども、その時にね、パイオニアの気持と、フロンティア、フロンティアって言うのは、まあ前線だな、前線基地の開拓だな、開拓精神だよ。これを忘れちゃいけない。切り拓いていくという気持ね。大事だぞ。 かつて先祖がそうして地球に来たんだ、ねえ。大船団を率いて、初めて地球の上空に来た時の、あの感激が君たちにわかるだろうか。この青い水に包まれた星。地球がクルクルと回ってるの見たときに、バンザーイ」っていう声が、どれだけ聞こえたかわかるかね。バンザーイっていうのは忘年会の時だけにやるんじゃないんだ、ね。そういう時もあったんだよ。 その大きな感動から言やあ、小さい小さい自分であるということをね、恥ずかしく思わにゃいかんよ。ちっちゃくまとまっちゃいけない。もっと大きな理想をもって、どんどんできるだけ大きな人生を生きていく。そういう気持を大事にしてください。現状の小さな悩みの中に閉じ篭(こも)らずに、そこから大いに脱出してください。 まあ、それだけをお願いして、本章は閉じることとしましょう。
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英雄乱舞 博麗神社復興の戦い > 登場人物 [部分編集] 霊夢軍 +... 媒体は英雄乱舞の劉禅軍 ここの勢力は動画用の勢力として名声が500技法が全て無い状態から始まる 魔理沙&紫と初めから同盟している 博麗霊夢 登録名は「霊夢」主人公にして君主。幻想郷に居た時と違い、ただの巫女で幻想郷のバランス関係に必要とかの設定が無くなった、神社の食料事情が厳しくなってた所を劉禅に英雄乱舞参加をお願いされ参加した。 初期能力(名品含む) 兵科 弓 統率94 武力85 知力84 政治67 耕作 兵心 収集 人脈 豪傑 一騎 遠射 冷静 戦法 夢想封印 敵弱体 使用コスト5(pk版から4) 範囲1000 基本効果時間65 攻撃75低下、破壊40低下、射程100%低下、特殊攻撃不可能 2話より猛射のエフェクトが付き始める 主人公らしく活躍する。 戦法は、かなり強力な部類で射程0倍により城攻めの時は被害を最小限で城門を突破できる 主人公らしく、いい場面で猛射が発動して敵を確実に撃破していく 戦法、特殊攻撃共に処理落ち気味に発動してしまうのが難点 しかし、この難点は無印5話から改善され原作寄りのエフェクトになった 伊吹萃香 登録名は「萃香」鬼として強い人間と戦えるのが満足でこの世界を気に入っている。ただし、酒の濃度が薄い為 (三国志の世界の酒のアルコール度は0.5%程)そこだけ不満があるらしい。参加理由は強い人間と戦うため 初期能力(名品含む) 兵科 槍(pk藤甲) 統率77(pk78) 武力117(pk155) 知力68 政治38 練兵 監視 補修 豪傑 一騎 遠射 攻城 戦法 戸隠山投げ 敵弱体ダメージ 使用コスト7(pk6) 範囲700 基本効果時間45 武力30低下戦闘力10低下(pkから戦闘力が減らない?) 機動力50%低下 ダメージ値7(pk10) 武力が異様に高いのだが中々生かせない しかし、pk以降ダメージ戦法の計算が変わる 兵科の変更による活躍が見込めるかも知れない 劉禅 霊夢がいる廬江の太守、彼が霊夢を誘い英雄乱舞に参加させた模様、かなり自分の能力を分かっており 凡愚だけど暗愚ではない人 戦法 阿斗の号令 味方強化 使用コスト1 範囲1200 基本効果時間120 統率、知力、武力が本人の能力分上昇 戦法のボテンシャルが高く劉禅自身を強化すれば活躍できそう・・・たぶん 黄皓 劉禅配下の宦官、料理、掃除、洗濯等の家事全般ができる宦官(本来宦官の仕事はこの様なものなのだが)どうみても男の娘? (仲☆達氏の書いた黄皓のイラストを使用) 戦法 黄の甘言 敵弱体 使用コスト3 範囲650 基本効果時間45 戦闘力8低下 コストの割に効果が高く強いが統率武力1なので使いづらいかも 賀斉 本来三國志12には居ない登録武将、時系列的に前の話である劉禅の英雄乱舞で協力した関係で劉禅軍に所属。霊夢曰く神に近い気質の持ち主。派手な部隊を率いてたことから武器等には拘りがある模様。天子(の緋想の剣)を狙ってる。 ある話に大きくかかわる一人 戦法 異民族戦神 自身強化 使用コスト4 基本効果時間45 武力、知力20上昇攻撃、防御50機動力20%上昇 費禕 劉禅の配下、非常に優秀な文官なのだが仕事を午前中に終わらして昼間から酒を飲む不良文官(ただし、これは史実の費禕もやっているため、史実寄りの性格)酒を飲みに行った先で萃香を見つけ英雄乱舞に参加させた。 裏方担当で霊夢達を酷使しながら裏で支えている 董允 劉禅の配下、非常に優秀な文官で生真面目、主に裏方を担当している他仕事放棄しがちな霊夢のサポートも担当 よく費禕に振り回される 天子軍 +... 媒体は英雄乱舞の董卓軍 比那名居 天子 登録名は天子 君主 董卓の孫娘の董白と意気投合した所を孫娘の知り合いと言う誼で董卓軍を媒体とした勢力で英雄乱舞に参加 本人は天界だと暇だからと言う理由で参加 緋想の剣を使うが剣の腕は大したことないらしい(張遼談)。が性能押しでなんとかしてる模様 初期能力(名品含む) 兵科 槍 統率84 武力94 知力74 政治63 名士 補修 豪傑 一騎 水練 遠射 攻城 戦法 緋想天則 自身強化 使用コスト4 基本効果時間75 武力20防御200上昇全兵科に特殊攻撃可能に 地味に3話以降に特殊攻撃した際にエフェクトが出る。尚、緋想天則はロボの名前といった方がいいのだが突っ込まないこと(作者の友人が突っ込んだらしい) 他に、名品が無いと衣玖さんより能力が全部低い 永江 衣玖 登録名は衣玖 天子の付き添いで英雄乱舞に参加。この世界の人々からは天気を予報するお姉さんとして人気者だそうです。 初期能力(名品含む) 兵科 槍 統率84 武力80 知力88 政治80 収集 監視 舌戦 水練 遠射 攻城 冷静 軍師 戦法 雷雲棘魚 敵弱体攻撃 範囲550 使用コスト7 基本効果時間45 基本ダーメジ値18 敵を動揺させる PK以降は兵科が匈奴に代わり活躍している チルノ軍 +... 媒体は英雄乱舞の孫登軍 チルノ 登録名はチルノ 君主 移転した先でイタズラをして騒いでた所を孫登に保護、その後英雄乱舞に参加 安定の⑨なのだが、12でも補正を発揮し霊夢軍を追い込む 初期能力(名品含む) 兵科 弓 統率69 武力87 知力9 政治9 練兵 豪傑 水練 遠射 戦法 アイシクル(7話にてパーフェクトフリーズ) 敵弱体攻撃 使用コスト6 範囲650 基本効果時間30カウント 機動力30%低下ダメージ値24 ダメージ系にしては珍しくコスト低めなので削りとしても機動力低下をメインとしても活躍が期待されるのだが、実際大活躍します 7話以降にて猛射にエフェクトが付くようになりました PKから兵科が藤甲に代わり様々なエフェクトも追加された 大妖精 登録名は大妖精 初期能力(名品含む) 兵科 弓 統率64 武力54 知力77 政治70 遠射 冷静 軍師 戦法 妖精の加護 味方強化 使用コスト3 範囲1000 基本効果時間145カウント 知力20防御20上昇 大ちゃんらしく味方の強化をするのだが、パッと見だと地味だが範囲、コスト、効果時間、共に良好な上知力20上昇は非常に強力 7話以降にて猛射にエフェクトが付くようになりました ルーミア 登録名はルーミア 孫登に保護され食事関係は安定している。何故かミスティアに冷たい 初期能力(名品含む) 兵科 槍 統率54 武力79 知力24 政治14 豪傑 遠射 戦法 闇の羽衣 自分弱体強化 使用コスト2 基本効果時間200カウント 防御180上昇視界100%低下 ルーミアの特性が十分に出てる戦法ルーミア単体だと周りが見えない点が難点?だがコストの割に効果時間。効果 共に強力 リグル・ナイトバグ 登録名はリグル 孫登に保護されリグル自身の能力を最大限に発揮して孫登の仕事を手伝っている 初期能力(名品含む) 兵科 馬 統率63 武力83 知力22 政治16 練兵 戦法 地上の流星 自分強化 使用コスト2 基本効果時間200カウント 攻撃70機動力50%視野100%上昇 他のメンバーが強力な為少し地味だが陣取りなどで活躍できるのだが・・・陣取りは動画に移らないという欠点があるが機動力でカバー? ミスティア・ローレライ 登録名はミスティア(最近の配布版ではミスチーに) 孫登に保護され屋台の営業の支援を受けてると思われる(諸葛瑾から八目鰻の仕入れをしてもらったり、護衛をつけて貰ったり) 政治力、特技に恵まれておりバカルテットの中では唯一(大妖精を除く)政治を任せれる 9話より奮迅のエフェクトが追加 PKから兵科が藤甲に変わった戦法のエフェクトもつくようになった 初期能力(名品含む) 兵科 槍 統率59 武力70 知力12 政治61 商才 名士 一騎 遠射 戦法 夜雀の歌 敵弱体 範囲2000 使用コスト3 基本効果時間200カウント 知力30射程60%視野40%低下 異常な範囲!効果はショボそうだが射程低下+視野の低下は弓部隊には痛く射程距離をズルズル減らされる 孫登 桂陽太守 バカルテットを保護した張本人 いい人 得意料理はオニギリ 諸葛瑾 バカルテット達の軍師格、沈着冷静に判断を下す、曹真から少し恨まれてる 諸葛恪 自称天才、その自惚れから危機に陥るが、ある事がきっかけで史実ではできなかった事をやりとげる。チルノとは自称最強&自称天才コンビで活躍している 四季映姫軍 +... 媒体は張遼軍最初から三都市を持っており霊夢軍に立ち塞がる 四季映姫・ヤマザナドゥ 登録名は四季映姫 本来の仕事はこちらの世界ではないとの事 初期能力(名品含む) 兵科 弓 統率107 武力66 知力102 政治90 名士 練兵 監視 弁舌 一騎 遠射 冷静 軍師 鬼謀 戦法 最後の審判 味方強化 範囲1000 使用コスト4 基本効果時間105カウント 統率50防御50武力30知力30視界200%上昇 戦法が文句なしの強さ PKの3話から特殊攻撃の猛射にビームが追加された 小野塚 小町 登録名は小町 サボり癖があるそうだが死神としての仕事がこちらの世界だと圧倒的に少ない為常にOFF 数少ない仕事はサボらない見たいです 初期能力(名品含む) 兵科 槍 統率88 武力94 知力77 政治47 練兵 補修 豪傑 一騎 遠射 攻城 戦法 魂の遊戯 敵弱体 使用コスト4 範囲700 基本効果時間200カウント 射程100%攻撃20低下 小町の能力を表わしてる戦法だが霊夢と若干被るがあちらと比べ効果時間が長くイヤラシイ 張遼 山田と言う異名を持つがゆえに映姫と組んだ 全体的に真面目 李典 初期は真面目キャラだったが無双7の影響か少し緩めなキャラになってきた 楽進 呉起 映姫戦中盤以降に参戦 非常に女好きな性格で戦闘中によそ見をしたりして敗北するほど、しかし、州彧の毒を抜こうとしたり、色々仲間思いな人 孫ピン 一応呉起や孫堅とは血が繋がってる、子孫の呉起を遠慮なく殴ったり、とても武力1とは思えない過激派 幽々子軍 +... 媒体は劉備軍 作者曰くこの配置だけは初期段階で決まっており関連性が一番高いとのこと 西行寺 幽々子 登録名は幽々子いつも通りのゆゆ様白玉楼が劉備の支配下にある上に劉備の保護を受けている為食事面はなんとか満足いくまで食べてるとの事 初期能力(名品含む) 兵科 弓 統率104 武力72 知力95 政治93 商才 名士 兵心 収集 弁舌 遠射 攻城 冷静 軍師 戦法 墨染の桜 敵弱体 使用コスト6 範囲800 基本効果時間45カウント 戦闘力8低下(攻守40低下)特殊攻撃不可 魂魄 妖夢 登録名は妖夢 劉備などの剣の指南をしてるのだが・・・ 初期能力(名品含む) 兵科 槍 統率89 武力91 知力75 政治46 耕作 兵心 練兵 監視 豪傑 一騎 攻城 幽明の苦輪 個人強化 使用コスト4 自分のみ 効果時間75カウント 統率30武力20知力20攻撃70上昇全兵科に特殊攻撃可能 劉備 うp主のお気に入り武将劉備の為に紙芝居話を作るほどの優遇ぶり。ノリが軽い 戦法に演出が入るなどの好待遇を受けている 劉邦 今回から参戦した人の一人 劉備の先祖なだけありノリが軽い ただし、酔いが回ると妖夢のスペカをパクるなどの強さを持つ 趙雲 劉備配下の武将、突撃のエフェクトがおそらく特殊攻撃時のエフェクトの中で一番派手な人 早苗軍 +... 媒体は魏延軍(主力は真田一族と武田勝頼だが・・・) 東風谷 早苗 登録名は早苗 今の所真面目な早苗さん 八坂 神奈子 登録名は神奈子 洩矢 諏訪子 登録名は諏訪子 真田 信幸に濡れ衣を着せたり、真田 幸村に砦に籠って進軍止めさせようとしたり好き勝手やってる神様 ついでに戦法の演出が無駄に派手だったりかなり優遇されてるのかもしれない 武田 勝頼 登録名は諏訪勝頼、諏訪姓になった理由は不明だが諏訪子を守護してるらしい 真田 信幸 真面目な性格でこよなく平和を愛する諏訪子の世話を焼いていてるがいいオモチャにされて勝頼に切られたりする不憫な子 真田 幸村 聖軍 +... 媒体は上杉軍(完全オリジナル勢力) 聖 白蓮 登録名は聖 戦闘の指揮は執っていないが圧倒的な存在感で敵をなぎ払ってくる 戦法効果こそ短時間だが効果内容が異様に強い 寅丸 星 登録名は星 毘沙門天の化身として敬われているが・・・相変わらずの星ちゃん 宝塔を上杉 謙信に預けて無くすのを防いだりしているが・・・ ナズーリン 登録名はナズーリン(最新版ではナズと表記されている) 上杉 謙信 うp主公認の軍☆神ではない設定 聖に向かい姐上と呼んだり星を毘沙門天様と呼んだり非常に友好的 上杉 景勝 寡黙口数も少ないが星のドジを見て笑う面もある 直江 兼続 口数の少ない景勝の側近で星などに戦況を報告したり裏方に徹している(ただし、うるさい) 八雲 紫軍 +... 媒体は諸葛亮軍 八雲 紫 登録名は八雲 紫 能力をフルに使いゲームを軽く崩壊させてる 初期能力(名品含む) 統率121 武力96 知力150 政治160 商才 耕作 名士 練兵 収集 人脈 監視 補修 弁舌 豪傑 神速 水練 遠射 攻城 兵器 冷静 軍師 鬼謀 戦法 弾幕結界 味方強化 使用コスト4 範囲1000 基本効果時間200カウント 統率30攻撃50射程1200%視野1000%上昇全兵科特殊攻撃可能 チートそのものな戦法でその射程を生かし初期配置から敵本陣を狙いにくる様子はOMIKATAを沸騰させる 八雲 藍 登録名は八雲 藍 主、紫の世話、式神橙の世話をしている 初期能力(名品含む) 統率98 武力87 知力89 政治90 商才 耕作 名士 兵心 練兵 収集 監視 遠射 攻城 兵器 冷静 軍師 鬼謀 戦法 橙 自分強化 コスト0 基本効果時間600カウント 統率、知力、武力、橙の能力分上昇 橙が参軍などの時のみ使用との事 橙 登録名は橙 諸葛亮に遊ばれている藍の式神 初期能力(名品含む) 統率75 武力72 知力55 政治49 名士 収集 神速 遠射 鬼謀 諸葛亮 橙や友人徐庶をからかったりするお茶目軍師 初期能力(名品含む) 統率102 武力46 知力140 政治97 商才耕作名士兵心練兵収集人脈監視補修弁舌神速水練遠射兵器冷静軍師鬼謀 戦法 天下奇才也 味方強化 コスト6 基本効果時間60カウント 範囲600 知力30戦闘力5上昇伏兵状態に 徐庶 かなり荒っぽい軍師 初期能力(名品含む) 統率87 武力80 知力93 政治80 耕作 名士 人脈 弁舌 一騎 神速 軍師 鬼謀 戦法 八門禁鎖落 味方強化 コスト4 基本効果時間100カウント 範囲700 統率20機動力1.2倍上昇 全兵科に特殊攻撃可能に 輝夜軍 +... 蓬莱山 輝夜 登録名は輝夜 初期能力(名品含む) 統率105 武力89 知力96 政治101 商才 名士 人脈 収集 兵心 練兵 弁舌 一騎 豪傑 水練 遠射 冷静 軍師 pkから難題を名品化したため強くなったとの事 八意 永琳 登録名は永琳 マッドサイエンティスト要素がいたってない永琳 初期能力(名品含む) 統率92 武力80 知力120 政治954 商才 耕作 名士 兵心 練兵 収集 監視 補修 弁舌 豪傑 一騎 遠射 攻城 兵器 冷静 軍師 抑え目な戦闘力と思いきや驚異の政治954!!下手するとニコ歴戦初の数値 なんでも統率、武力とかも4桁までにすることができるとの事だがバランス的に政治は高くしても大丈夫だからとの事 鈴仙・優曇華院・イナバ 登録名はうどんげ 因幡 てゐ 登録名はてゐ 綿月 豊姫 登録名は豊姫 綿月 依姫 登録名は依姫 レイセン 登録名はおそらくレイセン 曹操 抜擢組 +... 他の作品から出てきたキャラも含みます ちなみに元の作品の世界とは関係ない模様 こちらの世界の住人で武将として訓練されたとの事 ルーミアの国取りグルメ旅から 裴遂 ルーミアの為なら命を懸けて戦う人物 修行の為山籠もりをし時を止めるまでになった 何があったんだ!? 楊禁 裴遂と同期 文句を言いながら裴遂の山籠もり 無茶な進軍に付いてきた、尚残機持ち 郭琰 いい加減な性格の持ち主だが要所要所でキチンと活躍している [部分編集] おめでとうございます。しかし賀斉は・・・ -- 那智 (2012-12-25 06 16 06) 初期能力値がこれほど あてにならない動画も珍しい霊夢の統率もう120越えってww -- 名無しさん (2013-05-15 13 01 03) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/183.html
目次 1.科学の進展を促した三つの理由 2.いっそう情熱を注がれるべき天才教育 3.睡眠調整によるライフスタイルの変化 4.夢のような再加工処理機 5.さわやかな生活を約束する錠剤 6.反重力装置の自家用飛行機の出現 7.新たなエネルギー源 8.第二のエジソンによる霊界通信機の完成 9.未来型食生活 10.便利な空中邸宅 11.未来人のための肉体強化法 12.日進月歩に目をみはる先端科学 (一九八九年三月十三日の霊示) 1.科学の進展を促した三つの理由 アイザック・ニュートンです。 さて、本章は最終章になるということですので、未来科学のあり方、また霊天上界にあって、予見される今後の科学を取り巻く時代の環境について語りたいと思います。 科学に関しては、人類はそうとうの期待を集めている、期待を寄せていると思えるのです。いったいどういう世の中が今後くるのだろうか。 もちろん、宗数的福音というものもあるでしょうが、宗数的福音は、従来、ともすれば心のなぐさめ的に使われてきたことが多かったのに対して、科学そのものは発展・推進の原理、その具体化の原理として力を発揮してきたものであり、今後もますます本領を発揮していくであろうと推定されているのです。 さて、未来科学がいったいどのようになるか、ということは、実は地上に生きているみなさんが、今、どういう社会の到来を、どういう生活の到来を理想とするか、あるいは理想とする可能性があるかということと関係があるのです。科学の進展は、その進展を促した理由として、三つのものがあると思えるのです。 第一には、人間は飽くなき興味・関心を持ってきたということ。この飽くなき興味、関心によって科学の発展があった。したがって、この興味、関心ということが、第一番目にあげられます。 第二には、創意工夫ということです。心を尽くし、思考を尽くして、よいものを生み出していこうとする努力、これが科学の根源にあります。 科学の根源の第三にあるものは、何であるかというと、不思議な現象に説明をつける、それを客観的、合理的なものとして、説明をつけるというところにあるのではないかと思います。このような性格がきわめて私たちが必要とするもの、卑近な材料そのものを変えていく原動力になっているのだと思います。 すなわち、科学というものは、人間の心に去来したもの、人間の頭脳に去来したものを、それを三次元世界において具体的に実現していく力というふうに言い換えてもよいでしょう。すなわち、発想を具体化する、現象化する力ということです。これが科学なのです。あるいはもちろん逆の言い方も可能ではありましょう。現実の世界の中から、帰納していく力、現にあるもののなかに潜んでいるルールを発見していく力、こういうふうにも考えることもできるでしょうが、ニュートンとしての私の生涯をふり返ってみると、ほとんどがそうしたものではなくて、天上界から天降ってきたように、次つぎとアイデアが生まれ、そのアイデアをこの世界において、どのように活用するか、発揮するか、ということに主眼があったと思えるのです。 2.いっそう情熱を注がれるべき天才教育 ここにおいて、私は、もういちど天才論が必要だというふうに、今、感じています。天才論が必要であり、天才教育が必要である。そのことに、強く心を引かれるのです。各国の政府は、国民すべてのレベルを上げるという努力をするのは当然のことながら、天才教育というものに、もっともっと情熱を注がねばなりません。日本という国においても、この国を将来的に発展させていくためには、本格的に天才を養成するということに取り組まねばなりません。これをしなければ、国の繁栄・発展はありません。ぜひとも、ぜひとも天才教育ということに力を注いでいただきたい。 天才たるものは、いったいどういう特徴を持っているかと言えば、このインスピレーション、天降ってくるインスピレーション、あふれ出てくるインスピレーションというものを受け取って、この意味を解読し、そしてこれを解説し、三次元世界のなかにおいて実現していく、こういう力を持っているのです。そうすると、この天才たちを保護するためには、どうしなければならないかというと、この天降ってくるインスピレーションを受け取るということが可能になるような体制をつくってやること。そして、それを公表、発表することに関して、彼らが傷ついたり、迫害を受けたりしないようにしてやること、こういう配慮がとてもとてもだいじであるのです。 したがって、こうしたこの世ならざるものを感じとり、それを発表するという人たちに対し、彼ら個人個人の勇気を必要条件とするのではなくて、そうしたものをすばらしいものとして、受け止める土壌をつくっていかねばなりません。私は、そのように思います。 ですから、今後科学にさまざまな進展があるでしょうが、それらはどれも生きている人間というものを介在として現われてくるものなのです。人間というものを介在しなくて、突然に現われることは決してないのです。必ずだれかの手によって、だれかの発明によって、だれかの創意工夫によって地上に現われてくるものなのです。 3.睡眠調整によるライフスタイルの変化 さて、人間が興味関心を持ち、創意工夫をし、そして合理的に説明をつける。こうした方向のなかに未来科学が見えるという話をいたしましたが、では現代人が、今後、興味関心を持つものはいったい何でしょうか。どのようなものに対して興味を持ち、関心を持っていくのでしょうか。それは本書の読者各人の胸に描くことでもあるでしょう。あなた方は、どういう世界に住んでみたいか。今自分の思いのままの環境が展開するとして、どういう環境を考えるか。そうしてみると、人間は無駄を省きたいという気持ちが、ひじょうに強いでしょう。できるだけ無駄を省いて、自分の自由な時間を確保したい、値打ちのある活動に没頭したい、こういう気持ちが強いであろうと思います。 そうすると、現代社会を見ていて、まことに無駄であると思われる領域、これが発見されねばなりません。いったいどの部分が無駄でしょうか。 そうすると、まず第一に考えられるものは、睡眠だということに気がつくでしょう。八時間の睡眠、人によっては十時間、十二時間の睡眠を取っている人がいますが、これらは地上において、活動することがまるで何もなきかのように見えます。ほんとうにいろいろな興味、対象があれば、この睡眠の部分も自由になったはうがいい、こう思えるのです。 したがって、今後、この睡眠調整の機械は必ず発明されるようになります。この睡眠調整機械を通して、コントロールができるようになるはずです。すなわち、睡眠の一時間の質をもっと上げていく、こういうことです。こういうふうにすることによって、ひじょうに幅広い時間帯に活躍できるようになります。 そうすると、どういうふうになるかというと、睡眠の調整ができるのですから、今のようにワンパターンの生活環境が変わってくるのです。サラリーマンたちは朝の八時のラッシュに揉(も)まれ、そして、帰りも五時、六時のラッシュに揉まれて、そして仕事に、職場に行き、自宅に帰るということをくり返していますが、この睡眠の調整ということが効いてくるとどういうふうになるかというと、一日二回転、ないし三回転の仕事ということが可能になってきます。 それは、すなわち朝早く起きることがセットできるタイプの人は、午前の五時から働いて、昼前には引き上げる。そして、午後は自分の自由な時間を満喫する。また、中頃をとる人は、朝の九時、十時に出勤して、夕方に帰るという従来の形をとる。そして次のタイプは午後に出社をして、そして夜中に帰ってくる、こういうタイプです。この三通りの生活パターンが可能になるでしょう。 そうすると、現在の限られた空間問題がかなりかたづいてきます。交通のラッシュ、これがかたづきますし、空間の利用度が三倍になってきます。何しろ、大都市のオフィスといっても、土・日は休みであるし、そして、夜中も休みである。その週休二日が三日にならんとするような勢いがありますから、これだけ寝かしているということは、きわめてもったいないことです。 三交替制ぐらいで仕事ができるようになれば、オフィスの活力はひじょうについてきますし、また交通網も収入は維持しながら、ゆったりとした交通網を確保できます。また、繁華街などでも、二回転、三回転の仕事が始まっていくわけで、たとえば、飲食街でも昼間の飲食街、夜の飲食街、また、朝の飲食街、現在コンビニエンスストアーにしかないような、こういう制度がすべての仕事において可能になってきます。 こうすると、どういうことかというと、空間的拡張をせず、設備投資をしないで、もっと多くの人間が働きながら生きていける環境を創出することが可能となってくる、ということを意味しています。すなわち、会社が千人の会社であっても、そのままの空間資源で二千人の人を雇えるようになる。そういうことが可能になってくるわけであります。 こういう世の中になるとどうなるかというと、夜はもちろん人工照明がもっと強くなって、電車などの交通機関は二十四時間動くようになるでしょう。そして、それがいっこう差し支えないようになるでしょう。朝型であった人は、必要があれば夜型に切り替えることも、昼型に替えることも自由自在にできるようになってきます。 この睡眠調整機械というのは、ある種の振動を頭脳に与えて、切り替えるようになっていくでしょう。ちょうど現在、美容室においてパーマをかけているような具合で、あのように頭にお椀のごときものをかぶせて、そして一定の電気ショックに近いものを与えて、そして体のリズムを変える、そういうものがやがて発明されていくだろうと思います。 4.夢のような再加工処理機 さらに、この世に出て無駄だと思われるもの、これはいくつかあります。まずゴミです。毎日、毎日、山のようなゴミが出てきます。ゴミであるとか汚物であるとか、このようなものが山のように出てきます。この部分に改良の手を加えずにおくということは、科学の将来にとってはきわめて無駄が多い。各家庭において、このゴミを再処理する方法が開発されねばならないと思います。現在のように、月・水・金にゴミを取りにくるというような、こんな仕事はなくなっていくでしょう。それはまるで、ジューサーとかミキサーを使つて、いろいろなジュースをつくつているように、まつたく、この再加工処理機械を使つて別なものがつくり出せるでしょう。 その新しい機械は、二つの部分で成り立っていると思います。一つは、ゴミと思えるもの、これを全部そのなかに投げ込むと、その機械のなかでその成分を分類して、そして分類ごとに溜めていく、そういう作業があります。鉄分は鉄分として、アルミニウムはアルミニウムとして、水分は水分として、蛋白質は蛋白質として、ビニールはビニールとして、ゴムはゴムとして、こういうふうに遠心分離機にかけたように分離されて、それぞれの同一の素材が固まります。それは固まりになります。次は、この素材が固まったら、これの分析結果が出てまいります。そして、ちょうど電子レンジでも見るように、鉄分が何グラム、水分何グラム、蛋白質何グラム、ゴム何グラム、ビニール何グラムというような形で出てきます。 そしてこれを材料にして、自分がつくりたいと思うものを、ボタンを押してコンピューターにかけます。そうすると、その成分に基づいて、再加工の可能なものが次の図表のなかに出てきますテレビ画面のなかに出てきて、これを再加工すると、この成分からスプーンが三本できます。あるいは、草履(ぞうり)が一足できます。あるいは、このような飲み物をつくることが可能です。このような蛋白質を使って団子をつくることが可能です。こういうものがコンピューターによって打ち出されます。そして、そのなかから選択ボタンを押すと、次の加エプロセスによって、その製品ができあがります。こういうものが各家庭におかれるようになります。 ですから、廃棄物をどんどんそのなかに投げ捨てると分解し、そして基本単位に固め、その基本単位の素材として、次につくり出すもの、これを構想し、ボタンを押すことによってそれがアウトプットされる。ある意味での自給自足経済のようなものが始まります。リサイクルが家庭において始まるようになってきます。これはきわめて便利なものです。 そして、もちろんこのリサイクル部分として必要がない部分については、新たな経済取引の対象となるでしょう。自宅では鉄の部分について、全然必要がない、ということであれば、この鉄の部分が鉄の塊、球となったり四角い塊となったりしているわけですが、このようなものを選り分けられて、不要な部分を各家庭にあるダストシュートのなかに入れると、それがコンピューター管理によって、各家庭から一挙に集中センターに集められていきます。 そこで、いろいろな各素材ごとにまとめ直されて、大工場に送られていきます。アルミニウムはアルミニウム、銅分は銅分、その他のものはその他のものとして大工場の地下に送っていかれて、そこで大規模な再処理が始まっていきます。家庭で使えなかったものについては、大規模な処理が始まり、そして一か月分のこうした再処理物品の統計が出てきます。 たとえば、現在一か月あたりのガスのメーター、電気のメーターの検針がくるように、この再処理として出したものがどれだけのものであったかが、これがメーターのなかに記載されて、それがその家族の、一家の一か月の経済行為として判定されます。この経済行為の部分が五千円なり、一万円、あるいは二万円の利益を生み出すことになりますから、この部分がガス料金や電気料金と相殺されるかたちになっています。そういう便利なかたちにやがてなっていくのです。 5.さわやかな生活を約束する錠剤 さて、以上がいわゆるゴミですが、もう一つどうしても考えねばならないものとして、人間が出す、あるいは動物が出す汚物の問題があります。この汚物をなんとか変えようという努力が今後進んでくると思います。なぜ、あれほど悪臭があるか、見た目が美しくないか、そしてまったく役に立たないのか。一昔、二昔、三昔前においては、これらは野菜を育てたり、肥料にしたりするという役に立つ面がありましたが、化学肥料が進んだ現在においては、ひじょうに役に立たなくなってきております。 そこで、今度はある種の薬が発明されるようになります。食後にその錠剤を二錠ないし三錠、必ず飲むように指示されます。そうすると、いったいどういうふうになるか、ということですが、この排便なら排便の仕組みが変わってくるのです。お腹のなかで、その錠剤によって化学変化が起きてきます。そして、現在の大便なら大便が、違ったものに変化していくようになるのです。それは一種の菌、発酵菌にも似ていましょうか。大腸のなかで化学変化を起こさせて、そして違った性質のものに変えていくのです。どういうものであるかというと、見た目も鮮やかで美しいものに、そして臭いもひじょうに馨(かぐわ)しいものに変えていきます。また容易に分解されて、水に流れていくもの。こういうものに切り替えられていくでしょう。 したがって、今のようないやらしい臭い、気持ちの悪いという考え方、こういうものがなくなっていくでしょう。まことに天上界のような馨しいものに変えていくことは可能だと思います。これがやがて発明されるようになっていきます。 6.反重力装置の自家用飛行機の出現 さらに地上の生活を見ていて不便である、いやであると思われるものに、いったいみなさんは何があるでしょうか。もちろん、すぐに改良にかかれるものとしては、交通の便ということがあげられるでしょう。交通はひじょうに便利にはなったが不便なところも多く残っています。一つには空の便の使い方ということになりましょう。空港までがきわめて遠い、それをどうにかならないか。飛行機では日本国内どこへでも一時間で行けるけれども、この空港までの距離が遠い。これをどうにかしたい。もちろん、こういう考え方が出るわけです。 これに関しては、もう少し安全で、そして移動の簡単な自家用機が開発される。これは間違いのないことだと思います。ヘリコプターのようなものでも、かなり大きくて不便ですが、もっと簡単なもの、あるいは自家用車クラスの飛行機、空中艇というものが必ず開発されます。そして、空港まで楽に行けるようになるでしょう。これはひじょうに安全な機械です。反重力装置という重力に反発する装置を持っていますので、地面に激突しないのです。いわゆる、落ちかかってもフワリと浮いてくる感じになります。磁石と磁石とが反発し合うように、重力と反発し合って空中に浮かぶ機械ですので、墜落の心配がありません。絶対に墜落しませんし、他の飛行機とぶつかることもありません。近寄るとその反発作用によってぶつかることがないのです。こういう飛行機が必ず発明されるでしょう。それは、そう遠い将来のことではないと思います。たぶん、ここ数十年のうちに、そういう飛行艇も一部発明されることになると思います。 そして、これがUFO製作への第一歩となっていくでしょう。 UFOという話を今いたしましたが、当然ながら宇宙旅行に出るための宇宙船、これの開発が必要になるでしょう。もっともっと高度な技術が要求されるようになるでしょう。しかし、これは現在でも日進月歩であって、ますます精度の高いものになっていくでしょう。 7.新たなエネルギー源 また、その次に言っておきたいこととしては、燃料、エネルギーの問題です。現在では石油、ガス、そして廃(すた)れましたが石炭、また、電力、これらが中心です。そして、原子力というのが一部入っています。この原子力に関しては、危険ということで反対する人もかなりおります。 さて、今後の燃料というものを考えたときに、新たな燃料源として開発されるものが二つある。そう言っておいて間違いないでしょう。 一つは、化学変化のエネルギーを使うという方式です。フラスコのなかで実験していても、ある種の薬品どうしをかけあわすと急に発熱することがありますから、あのように化学変化をするさいに出るエネルギーというものを利用する、そういう装置が開発されます。その自家用の装置を開発することによってエネルギーが使えるようになってくるでしょう。これが一つです。 もう一つは、ウラニウムを原料とする原子力に変わるものが出てきます。これとはまったく別なものが出てきます。そうした鉱物が発見されます。ウラニウムよりももっと安定的で、もっと莫大なエネルギーを生む、そういう鉱物が必ず発見されるようになるでしょう。それはおそらく、21世紀の初頭に経験されることだと思います。あと十数年すれば、たぶんそういうものが発見されるというふうに私は思っています。必ず、これは今後そうなるでしょう。 8.第二のエジソンによる霊界通信機の完成 さて、これ以外に現在、どういうものが改良される必要があるかということですが、これは私以前にすでにエジソンが霊言でも語っていたようでありますが、霊界との通信機械、これの開発、これも百年以内に考えられることであると思います。霊界からの通信が受けられるということ、また霊界の様子がテレビの画像に映るというような、こういうシステムです。これは霊界の科学者もかなり研究していますし、もう、こちらの世界においては実用の域に近いところまででき上がっています。これをなんとか地上に降ろして、地上の発明家の力によって完成させたい、こう思います。 第二のエジソンのような方が出て、それを発明し、そして霊界とのコンタクトをとる。自分が死別した父や母、祖父、祖母などとも通信がとれるような、そういう世界にしたい。あの世の世界はあの世の世界としてあってもいいけれども、このテレビ電話によって話ができるような、そういう装置をぜひともつくりたい。それをつくることによって、おそらく大いなる福音となり、宗教家たちは本来の仕事ができるようになると思われるのです。 あの世があるかないかという証明に大部分の努力を要求されてきたわけですが、これは実に無駄なエネルギーであった、と私には思えるのです。科学的観点から言ったならば、あの世があることを科学的に立証したほうが早いのであって、それを立証した上で人間の生き方、神の教えというものを、もっともっと説いていけば、どれほど力強いかわかりません。この部分がなかなか信用されないでいるのですから、霊界通信機械というのはぜひともつくりたい、そう思います。 そして、もう一つ必要があるとするならば、霊界通信機械だけではなく、霊界探訪機械というものも必要だろうと思います。今、深海艇というのがあって、海の底に潜ってその景色をカメラにおさめていく、そういう装置がありますが、同じように霊界において、さまざまな世界を探訪して、それを地上に通信していく、そういう機械も必要であろうと思います。その機械は、この要請上どういうふうになるかというと、自らの存在を四次元波動、五次元波動、六次元波動というふうに次元別の波動に切り替えていけるだけの、素材変換のメカニズムを持っていなければ駄目です。そういうメカニズムを持った機械、これはもっと先になるでしょうけれども、これも開発される必要がある。そのように思います。 9.未来型食生活 さらに、次に未来科学の姿としてありえるもの、これは今一つ考えられるのは、食べ物の変化ということでしょう。もう少し、食生活に変化があっても悪くない、私はそのように思います。今後は、もっともっと新たな食糧品というものが開発されるようになるでしょう。それは天然物の食品だけではなくて、人工物の食品がもっともっとつくられていくようになるでしょう。現時点でも、かなりこの科学分野での研究が進んでいますが、食品科学というものがもっともっと進んできます。そして、いろいろな素材から、人間の好みのものをつくり出せる。そういう努力がありえるでしょう。 また、食品以外で目覚ましい変化があると思うのは、飲料水、飲み物のほうです。これも、現在まだ地上にないような飲み物が今後発明されるでしょう。地上にある飲み物は、たいていは果汁というものが発想の根源にあります。これ以外につくられたものとしては、炭酸飲料というようなものがあるでしょう。 しかし、今後はもっともっと健康飲料の分野において、技術革新が進んでいきます。そのドリンクを飲めば超人的なパワーが出てくるというようなものは、いくらでも開発されてきます。それは可能なことであるのです。そのドリンクを飲めば、一気に長距離マラソンが可能になるような、そういうものがたぶん出てくるでしょう。また、そのドリンク剤のなかに、さまざまに体調を切り替えるような、そういう成分を持ったものが出てくるでしょう。その飲料水を飲めば頭痛が治り、頭が爽快になる、胸が爽やかになる、体調がよくなる、活力が漲(みなぎ)ってくる。こういうことです。とくに現代人は、疲労困憊(こんぱい)していますので、活力をとり戻すための飲料水というのが必要になってくるでしょう。これは、ごくごく近い将来から始まっていくというふうに思います。 この意味において、飲料水のみならす、ビタミンのたぐいがもっともっと進化します。ビタミンに代わるようなものも発明されてくるようになるでしょう。 10.便利な空中邸宅 さて、これ以外に、未来科学の姿として予見されるもの、それは一つには家のあり方というものが、私は変わってくると思います。今、地上の常識では土地に家を建てるということになっています。そして、土地の値段がひじょうに高いために、持ち家ができない。それが問題になっていますが、今後空中に浮かぶ家というのがつくり出されるでしょう。これについても法律の規制がまた始まりますが、土地が高すぎるならば、土地の上に建てなければよいという考えをする人が出てきます。空中に浮かぶ家。かつて、世界の七大不思議といわれた、空中庭園のような、こういう家が出現するでしょう。これはおそらくは、可能であるというふうに私は思います。 この空中に浮かぶ家を可能ならしめる条件としては、その家にもちろん空間を移動するだけの装置が必要です。これが一つです。もう一つは、さきほど言いましたように、反重力装置によって、適当な反発力を生み、それが空中に浮くようにしなければなりません。この事実はそう先のことではありません。 現在でもニューセラミックの世界において、超伝導ということが起きています。ある種のセラミックを使うことによって、空中に物が浮き上がるという現象が開発されていますが、この超伝導の考え方を用いれば、家が空中に浮かぶということが可能なはずです。そして、地上数十メートルのところに浮かんでいるぶんには、どこにも迷惑はかからないということになります。この家は、現在のあなた方が住んでいるような家である必要はないのであって、ちょうど金魚鉢のような家であってよい。そのような丸いシャボン玉のような家であって悪くない。せいぜい家の中が見られないように、下半分は不透明にし、上は透明にする。こういう家であってよいでしょう。 したがって、ガラスの玉のなかにミニチュアの家が入っているような、こういう姿に見えるかもしれませんが、こうしたものがあっちにもこっちにもポッカリ、ポッカリと空中に浮いていくようになるでしょう。そして、空中に家を持っているということが、今後はある意味でのステータスシンボルになっていくでしょう。そして、これは空中の家で、別荘でもありますから、家ごとどこでも好きなところに行けるわけで、きわめて便利です。たとえば、ご主人が地方に転勤があるということになれば、単身赴任であるとか、あるいは家の留守番を頼むことになったのが、家ごと移動していくことになりますから、とても便利です。土・日あるいは週末は地方に家が移り、そしてウィークデーになると東京に戻ってくる、こういうこともあるでしょう。 そして、新たな仕事としては、この家の格納庫みたいなものも、また有名になるでしょう。空中に漂ってばかりいてはいけないので、家を預かるという仕事も必要になってきますので、このときには、空中に浮かぶ家を飛行場のような大きな土地を持っている人が預かる、家のマンション、アパートのようなそういう仕事が始まります。これは、空中に浮かぶ家を、一種の磁力線によって引きつけて動かないように固定する。こういう作業です。錨(いかり)を降ろすかわりに、磁力線によってそれを結びつける。そういう作業で、ちょうどタコが舞い上がっているように、そういうかたちで、あるいはアドバルーンが複数上がっているようなかたちで、一定のところに預けられる家も出てくるでしょう。 もちろん、こうした空中の家の大部分は地上ではなくて、海上に浮かんでいることのほうが多いでしょう。地上に浮かぶとさまざまな日照の障害が出たりするという非難もあるので、たいていの場合、海上に浮かんでいることが多いでしょう。そうすると無限の余地があるわけです。 また山岳地帯に浮かんでいる家も数多くあります。それは景色がひじょうにいいからです。そうすると、たとえば長野の方面に浮かんでいる家があって、そして東京のほうに出社ということになれば、午前の五時ごろになると、自動装置によって、急に飛行艇としての家が動き始めるわけです。まだ、家の人が眠っているうちに、その家が動いていきます。そうして出勤間際、八時ごろになると東京上空に止まっている、そういうかたちになります。このように自動タイマーで家が移動したりするような現象が起きるでしょう。もちろん、これと並行して水中での家、海底あるいは海中での家というものが発明されるでしょう。海が好きな人もいますから、海の底に住む人も出てきます。これも可能でしょう。 11.未来人のための肉体強化法 さて、これ以外の未来社会の構造についてお話をしておきたいと思います。現在の生活でひじょうに不便であって、未来社会人から見れば唖然(あぜん)とするようなもの、それがいったい何であるか、そうしてみると、もちろんこれは病気というものがあるように思います。あまりにも病気が多すぎる。いろいろな薬だとか手術だとかやっているが、なぜそれほど病気が蔓延するのか。これは不思議な現象です。 そこで、人間の人体、そのものをもっと強くするという方法が当然発明されてきます。人体を増強していく。生理的にもっと強くしていく。こういう研究、医学的研究が進んできます。そして、おそらく百年後の人類というものは、現在の人類の二倍、三倍の体力を持っていて、病気に対しても抵抗力が強い人類ができ上がっていくと思います。それは可能なことであるのです。あらゆる病気を研究し、それに負けないような肉体組織をつくっていくということです。これは可能であろう、そう思います。病気は次第しだいになくなっていきます。 12.日進月歩に目をみはる先端科学 そして、さらに未来社会の科学を見てみると、何があるかというと、これは一番の研究課題は、やはり無から有をつくる、有から無をつくるといった作業です。仏教で「色即是空、空即是色」と言われているそうでありますが、まったく何もない状態から一定の物質をつくり出す、こうぃう作業が研究の中心になります。これが最先端の物理学の先にあるものです。現代の物理学は素粒子の研究に勤(いそ)しんでおりますが、その先にある研究は何かというと、まるで空中から物をつくるように、その素粒子のもっと小さな粒子から、いろいろな物をつくり出していく、その工夫です。これは可能になってきます。おそらく、いろいろな物をつくり出すことは可能になっていくでしょう。 それは現代人が見たら、まるで神のごとき力であるというふうに思えます。それは、どういうことかと言うと、これもさきほどのミキサー、ジューサーの例を引くならば、そのような機械のスイッチを押すと、そして機械が作動し始めると、必要なものがそこに現われてくるというかたちになりましょう。 たとえば、こういうふうに言えましょう。石炭なら石炭、これを集めてきて、そしてジューサーのような機械のなかに放り込む、そしてスイッチを入れる。三十分うなりを立てて、そのジューサーのようなものが動いて、そして止まってみると、この石炭が今度はダイヤモンドに変わっている、こういうことが可能なわけです。そうぃう変換が可能なわけです。こういう時代です。自宅でダイヤモンドがつくれる。そういう時代が来るようになります。まあ、このたぐいを言えぼきりがないほどの日進月歩です。 現在のワープロ、コンピューター、こうぃうものも、もっともっと簡単で、もっともっと能力を持ったものに変わっていきます。ワープロなども今のようにそんな難しいものではありません。これはほんとうにしゃべっただけで、文字になる。あるいはしゃべらなくても思っただけで、文字になってくるような、こういう機械がおそらく発明されるでしょう。思っただけでというのは、頭に一種のヘルメットをかぶり、ここにいろいろな電気回路を埋め込んであって、脳波の変化に基づいて打ち出していく、頭に描いた図をそのまま出していく、こういう装置がやがて出てくるようになります。人間の頭のなかで描いたものを読み取る機械が出てくるのです。それに基づいて設計図なり、絵なり文章なりが出てくる。こういう機械が発明されていくでしょう。 以上さまざまに語ってきましたが、これがみなさんを待ち受けている科学の未来の姿であるのです。
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目次 1.仏教、キリスト教、神道は、だんだん形式主義となり、暗いものになってきた 2.仏教が現在のように堕落してきた原因について 3.キリスト教においても、中味がだんだん失われてきて形式に堕(だ)してきた 4.真理を知るということは、目の鱗(うろこ)をはがすということである 5.知らないということから偏狭(へんきょう)な心が生まれ、不調和が生まれる 6.暴力によってユートピアが来るというマルクスの思想は間違っている 7.宗教間の争いの原因は、真理を知らないことにある 8.本来、幸せのための宗教が、人間を暗くしている原因について 9.過去、罪深いことをしてきた人間が救われる道は、今世で良いことをする以外にない 10.因縁を断ち切るためには、日時計主義の生き方をすることである 11.人間は、本当の真理を知ったとき、自由自在になり、明るい人生を生きることができる (1986年11月3日の霊示) 1.仏教、キリスト教、神道は、だんだん形式主義となり、暗いものになってきた 谷口雅春です。今日は私の話も第八回目、最終回となったが、「真理は、汝(なんじ)を自由にする」という演題で話をしたいと思う。今日の演題は、おそらく締めくくりにふさわしい演題であろう。 私たちは一体何のために、真理の学習に励んでおるのか。まずここから出発せねばならぬ。一九〇〇年代の終わりが近づいた、この現今の宗教好きの人たちを見ていると、どうも悩みが多い、私にはそう思える。仏教徒というのはどうも暗い。見ていると、カビ臭い。よく聴いておれば、どこかの木魚の音か何かが聞こえてきそうな気がする。あるいはナンマイダか、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とか、そういう声が薄暗い御堂のなかから聞こえてきそうな、そういう気がする。 また、クリスチャンにしてもそうだ。教会の建物自体は、洋風であり、日本人から見れば、一つの素晴しい建築でもあると思う。しかし、教会でも、現在は歌を唄うとか、聖書を読むと、相も変らず二〇〇〇年も同じ聖書を読んでおるわけである。二〇〇〇年前に三十歳で法を説き始めて、三十三歳で磔(はりつけ)にあった人間が語ったとされる言行録、弟子が編んだ言行録を今だに一字一句読んで、みんな唱えておるわけだ。どれもこれも、なかなか明朗な明るい発展という道がないように思う。 日本神道系にしてもそうだ。現在においては、もはや、カビ臭いというか、陳腐(ちんぷ)なものとなってしまったように思う。今、神社に行って悟れる人はいないと思う。 神社に行って見るものは何か。まあ狛犬(こまいぬ)が二匹座っておるぐらいで、あとは御みくじだの御賽銭(おさいせん)だのを入れる箱があって、鈴かなんかが上からぶら下っておって、ジャリンジャリンと鳴らすと、まあ、この辺が終りだな。あと神道で他のものと違うとすれば、まあ柏手(かしわで)を二回ぐらい打つと、こういうことだろうな。こういう違いしかないと思う。 そして神主は何をしておるかというと、一応神道系の装束(しょうぞく)を着て、烏帽子(えぼし)か何かをかぶって、眼鏡を掛けてやっておるわけだ。普通のサラリーマンをやりながら、片手間にやっておる者もおれば、いろいろだと思う。 ところで、そういった神社とか、仏閣、あるいは、キリスト教でもいいけれども、まあそういうところを職業として働いている人たちを見ると、神社の神主さんの家に代々不幸が多い。息子が交通事故で死んだり、あるいは、不具の子供が生まれたりする。仏様の方でも、お寺の方でも同じで、なぜか縁遠くなったり、事故が起きたり、病気がちの家庭になったり、いろんなことになっておるようだ。 こういうのは、本来聖域であるべきところが霊的な場所であるというだけで、住んでいる人たちの心が調和されていないがために、いろんな悪霊が巣喰っておるのだ。そして、そこに住んでいる人たちをも不調和にしていく。こういうところがあるようだ。 そして、神社も仏閣も、あるいは、キリスト教の方も、何だかんだと観光仏教とか、観光神道とか、そういうふうになってしまって、お金儲けだな、観光客相手の、そういうことになってしまったようだと思う。 神道、日本神道の方では、なかなかその教えというものが、はっきりと今の形では残っていないがために、確かに多くを要求するのは難しいという面もある。たかだか祝詞(のりと)をあげるくらいのことしか伝わっていない。また禊払(みそぎはら)いというようなことがあるというぐらいしか分かっていないようだ。 神道系でヽ少し本格的な動きとして近代で出たのは、例えば、黒住(くろずみ)教、あるいは金光教、あるいは天理教、こうしたものであったろうか。そして、近、現代だけれども、出ロナオ、出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)、こういう人々の大本教。そしてまた、戦後もいろいろなものがあるようだ。PL教団とか、何だかんだと出ておる。 谷口雅春が生命の実相哲学を奉ずる生長の家は、一体如何なる宗団かと言われると、これも万教帰一でやっているがために、一律にこれだと決めつけるわけにはいかないけれども、流れとしては、日本神道系統であろうと思う。なぜなら、指導神、親神様というのが、日本神道の神様であるからだ。そういうことにおいて、神道系とみてもいいかもしれない。 ただ、かつて日本神道系というのは、古事記、日本書紀ぐらいしか、その理論的著書というのがなかったのであるが、我が生長の家においては、一大啓蒙運動となり、文筆によって様々な思想というものを人々に流布(るふ)することに成功したのである。 さて私は今、そういう仏教、キリスト教、神道、こうしたものがだんだん形式主義となり、暗いものになってきたという話をしてきた。そしてなぜ、そういうふうな形式主義、暗いものになったかという原因を考えてみたいと思うのであります。 2.仏教が現在のように堕落してきた原因について まず、仏教を検討してみようか。仏教がなぜ、現在のように堕落してきたのかということを考えたいと思う。 仏教というのは、釈迦の時代においては、人間が本当に悟るための道であったと思う。ところが、釈迦没後二千五百年ぐらいたった今日では、悟りという言葉は、言葉としてはもちろん伝わっておるけれども、人々は悟りということの本当の意味が分からなくなっている。そしてとくに悟り、悟りと今だに言っておるのは主に禅宗であろうかと思う。 禅宗において本当に悟っておるのかというと、これも、けっこう難かしい問題がある。禅のなかには確かに深いものがある。禅のなかで無門和尚(むもんおしょう)というのがいて、「無門関(むもんかん)」というものを著わしている。そこで、無門という人の悟り得たレベルというものを、よくよく見てみるならば、けっこう高いものを持っていたと思う。禅で公案の集大成をした人であるという。ただ、その流れ自体を見てみると、栄西を始め、公案禅の流れというものは、どうも形式に堕してきたようだ。 禅というものは、まったく奇抜な問答をすることによって、人間的な知識というものを切り取り去って、新境地を開拓するというものが、その本義である。しかし、平凡な坊主が禅を教えているがために、どうもその森厳(しんげん)の理というものが、なかなか極められないようである。本当に悟った人が教えたならば、只管打坐(しかんだざ)だろうが何だろうが、それは素晴しい教えと、おそらくなるであろう。 ところが、悟っておらん人間が指導しているがためにそうしたものは、なかなか人間を本当の方向に導かないでいるのだ。しかし、坐禅でも組みたいというような気持ちを持つという、つまり、人間がそういうような気持ちを持つということ自体は、決して悪いものではないと、私は思う。 さて今、仏教の暗い面の話を続けておるんだけれども、結局、釈迦が説き来たり、説き去った教えというものは、何百、何千の法門がある。そのなかに法華経あり、そのなかに維摩経(ゆいまきょう)あり、そのなかに涅槃経(ねはんきょう)あり、そのなかにまた禅の源流となるような教えもあった。いろんな教えがあったのである。 そうした複合した教えが、釈迦という、一人の悟った人間のなかにおいて、渾然(こんぜん)一体となって融合されておったのだと思う。ところが、後の世の弟子たちは、師匠ほど、優れた人材ではなかったがために、その全貌を理解することができず、その一端をそれぞれ行じたのにすぎないのである。 であるからして、たとえば、お経というものの本来は、釈迦と弟子との問答集であったのにもかかわらず、それが漢訳され、そして日本に持ち来たられると、本来の意味を失ってしまう。つまり、漢語だな、いわば漢語の勉強としてだけ意味を持つようになった。あるいは、音読する。とにかく歌の練習でもしておればよいのだろうが、歌の練習のかわりにお経を読んでおると、喉(のど)は強くなるかもしれないけれども、意味も分からずに、経文をあげておる。 それでも功徳(くどく)があるのだ。あるいは、写経をする。それだけでも功徳はあるのだと、こういうことを言われておる。しかし、そういうことは、一般的に言えば、なんの功徳もないと考えてよい。 もちろん、写経をすることによって、規則正しい生活をするなり、向上心を持つなり、精進するという姿勢を持つことができるがゆえに、それは悪い影響はないであろう。しかし、経文そのものに、それはどの価値があるかといえば、そうあるものではないと思う。 ただ漢訳されたお経のなかにも、やはり漢訳した人の力によって、つまり、漢訳をした僧侶たちが霊能力を持っていた場合もあったために、なかには言魂によって漢訳されている言葉もなきにしもあらずである。 たとえば、般若心経(はんにゃしんぎょう)などというのは、よく読まれており、また現代でも人気があるようだけれども、これなども、これを訳した人が、霊的な能力を持っておったようで、訳語自体のなかに一つの言魂があるのだ。 あなた方も今、様々な神理の言葉というのか、そういう経文のようなものをつくって読んだりもしておるようだけれども、やはり言魂というのがあって、それは綴(つづ)られた文章のなかに出てくるのである。であるから、一般にお経というものは、それほど深い意味があるのではないけれども、なかには、そういうものもないとは言えない。とにかく、「仏つくって魂入れず」の諺(ことわざ)があるけれども、外見だけを真似て、中味を知らないのが人間であったと思うのだ。 3.キリスト教においても、中味がだんだん失われてきて形式に堕(だ)してきた キリスト教においてもそうだ。現在、キリストの本当の精神というものは、忘れ去られていると思う。そして、形式によって行われている。ただもちろん、聖書というものを熟読して、毎週毎週日曜日に、教会か何かに行って教えを受けておる。そのなかに、聖書自体も一つの波動があることは確かで、それに馴染(なじ)んでいることによって、多少の悟りのよすがとなることは事実であろう。 ただ、聖書を読んでいても分からぬことがある。つまり、イエス様が現代に出ておったなら、どういうことを言ったであろうということが、なかなか分からんということだ。今から二〇〇〇年前に、ナザレの地で漁師たちを相手に法を説いておったわけだから、それ自体は立派な教えであったとしても、なかなか現代の文明人たちを納得させ、説得するには少々不足するようである。ただイエスという人は、大変詩人でもあり、言葉が美しい方であったために、今だに彼の言葉によって、心酔し、影響を受けている人も多いかと思う。 こういうことで、仏教においても、キリスト教においても、その中味というものがだんだんと失なわれてきて、形式に堕してきた。すなわち、たとえば、日曜日に集まって、聖書を読めばいいとか、あるいは、お寺に篭(こも)って坐禅を一週間やればいいとか、そういう形式的なものになってきた。あるいは念仏をあげればいいとか、あるいは写経すればいいとか。そういうふうになってきた。 そして本来、自由自在であった神理というものが、いつの間にか人間の形式的な行動のなかに閉じ込められてしまったと言えると思う。禅をやっている者は、坐らなければ、とにかく悟れないとか、念仏をやっておる者は、念仏をあげなければ救われないとか。こうした行為というのは、そうした教えというものは、本来の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の教えからいえば、ほんの一万分の一にも満たない教えであろうと、私は思うのだ。 4.真理を知るということは、目の鱗(うろこ)をはがすということである であるから、私は今、あなた方にも、様々な真理というものを学んでほしいと思うのであります。真理を知るとは、どういうことかというと、目の鱗(うろこ)をはがすということなのだ。人間の目には様々な鱗が入っている。自分自身は、いろんなことを知っていると思っても、その知っておるという知識自体が自分を歪める一つのフィルターとなっておるのだ。 キリスト教のみが真実であると思っている人間は、その鱗の入った目で仏教を見、神道を見るから、本当の姿が分からない。だから、イエス様によってしか救われないなどと言っておる。 しかし、じゃあ、イエス様以前の人たちは、永遠に救われなかったのか。じゃあ、イエス様は、なぜイスラエルにだけ出て、日本だとか、中国だとか、印度(いんど)には出なかったのか。それらの人々を救う意図がなかったのか。そんなことは、おそらくないであろう。イエス・キリストは、ユダヤの民族神ではないはずである。彼が説いた愛の教え自体は、普遍的な教えであり、人類共通の財産であると思う。 そうではないだろうか。そういうことで、イエスの教えというものも、ずいぶん、誤解されている。イエスを熱心に信仰すればするほど、イエスの教えの枝葉末節ばかりにかかわって、そして本当のキリスト教の真理というものが、人々には分からなくなってきておる。 仏教においてもそうで、仏教者であれば、キリスト教では救われないとか、神道では救われないとか言っている。こういう宗教による宗派の違いというものは、もちろん、根拠のないものではない。 というのは、やはり日本なら日本を中心に活躍した神々があり、キリスト系統ならキリスト教系統で、ヨーロッパ世界を中心として活躍した神々がある。また仏教系なら、印度、中国、日本と渡ってきた神々があるということにおいて、魂の系統というのがないわけではない。しかし、だからといって、他宗が全然間違っているというわけではないと思うのだ。 5.知らないということから偏狭(へんきょう)な心が生まれ、不調和が生まれる とくにキリスト教においては、他宗排撃というものが頑固に、頑強に現在でもあると思う。他の目から、今、実在界にいる私の目から公平に見て、どの教えがいちばん真理を伝えているかというと、どれも、どっちもどっちというところだな。仏教は、本当に葬式仏教になって、一部の修行者だけのものになってきたようだ。神道は、本当に金集めばかりをやっているようだ。キリスト教においては、人間の生きていくべき道ということがまだ学ばれておるようにも思うけれども、ただ真理という面において、他のものを学ぼうとしない、そういう傾向がおそらくあると思う。 私は生長の家において、神道、仏教、キリスト教、こういうものを統合し、これを超える教えというものを説いたつもりである。なぜこういうことをしたのか。その理由を一言で言うならば、「真理は汝を自由にする」ということなのだ。真理を知るということは、手足を伸び伸びと動かすことができるということなのであります。 たとえば、哲学というものがある。現代でも哲学というものがあって、大学の授業でやっておる。そして大学の教授なんていうのは、自分が哲学をやっておると思えば、宗教というものを軽蔑して、ああいうものは、インチキだと、淫祠邪教(いんしじゃきょう)であって、人を惑わすものだと、哲学こそ本当の人間の理性を追究していくものであって、真理探究の近道だと、こういう考えをしておる。 ところがその元を辿(たど)れば、哲学においても、出ている偉大な指導霊たちは、皆んな光の天使であり、教えを説いた、その側面がただ仏教やキリスト教と違っているだけである。したがって、自らが哲学を学んでいるからといって、宗教を排撃している人たちは、結局のところ、真理を知らないんである。 また、仏教をやっているからといって、西洋哲学などを否定している人たちは、まだ真理を知らない。結局、知らないということから、そうした偏狭な心が生まれ、そうした偏狭な心から、争いがある。そして、不調和が生まれておるのだと、私は思う。 結局、本当に力を発揮するのは何かというと、真理を悟るということであり、真理の全体像をつかむということだ。真理は一つだということを本当につかんだならば、そういった宗教間の争いはなくなるのである。これがなくなることによって、どれだけ世界が平和になるかということを、あなた方は考えたことがあるだろうか。 宗教によって、救われた人も数多いかもしれないけれど、宗教によって命を失った人が数多いことも事実である。そうではないだろうか。とくに中近東の方では、イスラム教関係の国家同士の争いが非常に激しい。それも他宗教との争いではなく、イスラム教同士のスンニ派だとか、シーア派だとか、私はよく知らぬけれども、そうした派閥同士で血を流す争いをしている。爆撃をしてまでも、争っている。またアメリカとソ連との争いを見ても、キリスト教国が唯物主義の国というのを、要するに、叩(たた)き潰(つぶ)そうとしておるのだ。 6.暴力によってユートピアが来るというマルクスの思想は間違っている 唯物論というのは、結論から言えば、間違っている。この世は物だけではない。その裏には、生命の実相という偉大なる実相の世界がある。共産主義においても、ユートピアを実現せんとする、そういう希望が実際にあり、共産主義も一つの希望の原理であったこと自体は、否めないと思う。共産主義は、まったく間違った教えかというと、そのなかにある希望の原理自体は間違っておらぬのだ。人々を解放し、そして豊かな平等な社会をつくろうとする気持ちそのものは、間違っておるものではない。 ただ、唯物思考という考え方、あるいは暴力礼讃という考え方、こういうものは、明らかに間違っておる。 マルクスは、暴力というのは、革命の産婆であると言っておる。つまり、革命という落し子というか、赤ん坊をとりあげるためには、暴力という産婆が必要なのだと、マルクスは言っておるようだ。 しかし、こういう考えが間違いであることは明らかであって、人々が本当に平和な社会を築いていくためには、やはり暴力のない世界を目指すべきである。暴力によって、暴力のない世界を目指すということは、それ自体が一つの矛盾であることに気がつかねばならんと、私は思うのである。暴力によっては、平和な社会は生まれないのだ。それは革命という美名によっては、浄化され得ないことである。 たとえば、ソヴィエト連邦においてロシア革命が起きたときに、人々は、これが自由の勝利だと思ったであろう。これからユートピア世界が来るのだと思ったであろう。ところが、どうだ。この後の流れは、レーニン以後、スターリン、こういう悪鬼の如き者が出てきて、大量の粛清(しゅくせい)とかいうのを始めて、いろんな人を殺していったのである。 また、中国においてもそうだ。共産主義をやって、そのときには、平和な民主主義革命かのように装っておったけれども、対立抗争する者たちを、次々と粛清していった姿を見れば、それが一つの地獄の現われであるということを否(いな)めないであろう。 それは、やはりマルクス自身にも責任があったと、私は思う。つまり、暴力によって平和な世界がある。平等な社会がある。ユートピアが来るという思想自体が、間違っておるからだ。暴力によっては、ユートピア社会は来ない。 本当のユートピア社会をつくるためには、昨日も言ったけれども、良き言葉の創化力を使いながら、人々がお互いに光輝いていく方向で生きていくべきなのだ。そうでなければ、本当の意味のユートピアはできるはずがない。 7.宗教間の争いの原因は、真理を知らないことにある たとえば、こうした唯物主義、あるいはキリスト教国を語っておるアメリカ帝国主義、あるいはイラン、イラクなどイスラム社会の抗争、あるいはまた、キリスト教、仏教、神道という、こういう教義の争い、こういうのを見ておると、結局のところ真理とは何かということが分かっていない。これだけだと思う。 それぞれ自分の信ずるものだけが正しいという頑固な思い込み、これによって争いが起きているのではないか。釈迦が思っていたような広大無辺な思想というものは、普通の人は抱けない。またイエスが思っておった大きな教えというものを理解することができない。そのために自分に都合のよい教えだけを取って、そして、それでもって他宗を排撃する。これが人間の愚かなところだけれども、心が狭いというよりは、そういうことを、つまり、真理を理解するだけの容量がないと見るべきなのだ。 また今後、大きな教えが説かれていくのだろうけれども、この教えもまた大きすぎて、後の世の人々をすべて吸収することはできないだろう。そこで、またいくつかの派に分かれていく。これはある意味では、やむを得ない流れだろうと、私は思う。 さて私は、真理を知らないということ、これが争いの原因だということを言ってきた。 実際、人間はずいぶん、言葉づらに執われているのである。神様の呼び名を、お父様、お母様というふうに考えれば、キリスト教系では、それをパパ、ママと呼んでおる。仏教系では、それをお父様、お母様と呼んでいるかもしれない。ところが、神道系では、父上、母上と呼んでいるかもしれない。じゃあ、父上とパパは違うのか。お父様が違うのかと言えば、同じ人なのである。これを、呼び名が違うから違うと思っている。 かたやアラーの神というアラーがあったり、エホバがあったりしている。かたやまた日本では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)とか天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)とか、こういう方がいたり、中国では孔子の教えでは、天帝、天の御帝というのがおるかとか、いろんなことを言われている。 これをみんな、別のものだとおもっているようだが、決して別のものではなくて、実際は神そのものでなくて、神近き高級霊のことを指しておるのである。そして天上界では彼らはみんな友達であり、知り合いである以上、それぞれのお弟子さんの信仰は違うものであっても、お弟子さん同士の争いの原因が、無知に起因することを理解し、他宗教の高級神霊をも礼讃する気持ちが、彼らにあってもいいはずである。まず人間はこのことを知らねばならぬ。 今、様々な宗教の高級霊の霊言というものを世に送っているようだけれども、これもまた、万教は一つであり、同根であり、一つの神から分かれてきた教えであるということを理論的に実証しようとする動きなのである。 そういうことで、あなた方が、今後とも何十巻も霊言集を出していかれるということは、大変意味のあることであろうと思う。そうすることによって人々は、やがて、それを否定できなくなってくると思うのである。そうしたことが事実であるということを、やがて否定できなくなってくるであろうと、私は思っている。こういうことが、「真理は汝を自由にする」ということであって、真理を知ることによって、宗教を学んでいる者たちを自由にするのである。 ただ、この真理は汝を自由にするということを間違ったふうにとらえてはならぬと思う。真理は汝を自由にするからといって、間違った教えを堂々と説いていいかといえば、そういうことではない。それは明らかに違っていると思う。 私は他宗排撃ということは、基本的にはやらなかった。あなた方に対しても、基本的には同じ態度をとられるのが賢いと思うけれども、しかし時には、例外の場合もあると思う。あなた方のところで教えを請うてきている者が、明らかに間違った教えに所属している。こういうこともある。こういう人に対しては、それはちょっと違っていると、教えてあげるということは、好意であろう。 真理は一つであり、万教は一つなのであるけれども、ただ、これも正しい教えも間違った教えも一つであるという意味ではないということだ。これを間違ってはいけない。 教えのなかには両立しない矛盾というものがあると思う。その矛盾している点は、やはりどこか間違っているところと正しいところがあるのだと、この矛盾点そのものは見逃してはならぬ。清濁(せいだく)合わせ飲むという器量は、大変大事であるけれども、清濁合わせ飲むだけで、濁りをいつまでたっても濁りとして認めているようでは駄目であって、やはり清の方が浄化していかねばならぬ。濁りをも浄化していく、そういう必要があるのではないだろうか。 8.本来、幸せのための宗教が、人間を暗くしている原因について こういうことで、あなた方は宗教をやっているけれども、宗教をやれば、仏教をやれば抹香臭くなり、キリスト教をやればアーメンばかり言って、懺悔の思想とか何とかいって、暗くなってくる傾向が多い。 人間を暗くするような宗教というものは、私は、どこかがおかしいと思う。宗教というものは本来人間を幸せにするはずだ。本来人間を幸せにする宗教が、それを学ぶことによって、人間を暗くする。これは何かの誤りがあるのではないか。私は、そう思う。 先般も話をしたから深く話をすることをやめるけれども、キリスト教においても罪の思想、こういうのがあるし、仏教においてもカルマの思想、こういうものがある。こうしたものが人間を暗くしておるのだ。キリスト教では、何で自分がこんなに不幸なのかと思えば、結局はアダムとエバが犯した原罪によって不幸なのだ、と。仏教系で、今世に何でこんなに不幸なのかと思えば、きっとこれは三世の縁であって、過去世の業(ごう)に違いないという、こういう思想を持っている。 業というものがないかといえば、ないわけではない。作用、反作用という法則は厳然としてあるし、また過去世の生き方が今世の生活環境に影響していることも、これもまた事実である。ただ業はあるけれども、業に振り回されてはならんということも、また事実なのである。 たとえ過去世において人殺しを犯しておろうとも、今世でまた人殺しを犯さなければならないという理由はない。ショーペンハウアーという哲学者がおって、「盲目的意志」とか言っておる。人間は盲目的意志によって動かされている、と。したがって、これは仏教の業の思想だろうと思うけれども、盲目的意志によって生きておるのだ、と。どうしようもないところがあるのだと、こういうことを彼は言っておる。しかし、人間は闘牛の牛ではないから、赤いものを見たら飛びつくというようなものであってはならぬと思う。過去世の業があっても、それを乗り越えていくような人間でなければならぬ。 9.過去、罪深いことをしてきた人間が救われる道は、今世で良いことをする以外にない 今ある仏教の一派では、釈迦の原始仏教の、はっきり言ってしまえば、阿含経(あごんきょう)というのを根本教典にして、A宗などというのを立ててやっておるのが、どこかにおるようである。京都かどこかに。こういうものに対して私は一言、言っておきたい。 何というか、まだこういう考え方というのは、学問的な考え方に偏(かたよ)っておる。釈迦がいろいろと説いたお経のなかでは阿含経が最初に説かれた教えということになっておるけれども、最初に説いた教えだから正しいとか、後のものは弟子がつくったから間違いだとか、こういうことを言うておるようだけれども、そういうものではないということである。人間というものを、何というか、そういうふうに一つの教えに縛(しば)りつけてしまう。こういうのは、私は非常に間違いだと思うのであります。 この教団においては、あえて名前は言わぬけれども、人々は、さっき言った業を背負っておるとしておる。業というのを、ここでは因縁(いんねん)と言っておるようだけれども、因縁というものを持っておれば、この因縁を断たねばならぬ。父母の因縁を断つだとか、あるいは、兄弟の因縁を断つだとか、あるいは、失恋の因縁を断つだとか何だかんだと言って、銭儲けをしておるわけだ。 因縁を断つ行法というのを教えて、これで三年間やれば、両親の因縁を断てるとか、こういうことを言っておるようだ。たとえば、両親が非常に貧乏であったとか、このままでいくと自分も貧乏になるんじゃないかと、そういうことで、両親の貧乏の因縁を断たねばならぬ、と。こういうことで、何とかというお経を唱えて、三年間か何か数珠(じゅず)を揉(も)んでおれば、因縁が断てるなんて言っている。こんなのは、はっきり言って、何も分かっておらんと思う。 因縁というものは、ないとは言えないけれども、それは先程言った作用、反作用の連鎖であり、ある意味ではカルマであろう。ただこれを断つには、逆のことをやっていかねばならんということだ。つまり、過去、不幸な人生を生きていたのならば、どこかで幸福な人生を歩むように切り換えていかねばならんのだ。それはそうした経文を読んだり、数珠をさげたり、坐ったりすることによって、断てるものではない。百日坐ったから、千日坐ったからなんて、そんなもので切れるものでない。 そうではなくて、過去、罪深いことをしてきた人間であるならば、その因縁を切り、その業を断つためには、今世でいいことをするしかないのである。お経を読んだり、数珠を持って、数珠をちゃらちゃらさせながら千日坐ったからといって、切れるわけは絶対にない。こういうのは邪教というのだ。間違っている。 人間は過去、誤った宗教において迷ったのであるならば、今世において正しい宗教を修める以外にはないのである。これ以外にないのだ。 10.因縁を断ち切るためには、日時計主義の生き方をすることである 因縁を切るという方法は、この因縁を断つ方法は一体何かというと、これは一つの光明思想であると思う。 人間というのは、たとえばキリスト教でいうように、原罪を負った存在、罪深い存在だということで連綿として生きてきた。こういう形で、いつまでたっても、子供の代になっても、孫の代になっても原罪を背負って生きていくのが人間であるならば、人間は、その業を、カルマを断ちようがないではないか。どうやって断つというのだ。それを、これを断つには人間、罪の子の思想を改めて、くらりと思考を一転し、光明の方に向くしかないのだ。 過去が不幸だからといって、なぜ現在も不幸でなければならんのか。それをよくよくあなた方は考えてほしい。昨日の不幸をなぜ今日に持ち込むのか。なぜ、明日には悪いことばかりが起こると思うのか。あさっては、もっと悪くなると思うのか。病気をすればますます悪くなる一方だとか思うのか。こういう思いというものは、一つの慣性であろう。そういう惰性であろう。私は、これを一つの因縁とするならば、これを断ち切るためには、心を光明の方向へ向けるしかないと思うのだ。 要するに、日時計主義の生き方です。日時計というのがあるけれども、札幌か何かにも、花時計とかがあるけれども、日時計というのは、太陽が出ているときだけしか時を刻まないのだ。日時計というのは、闇の時間を刻まない。太陽が出ているときしか、時を刻まない。つまり、人間というのも、この日時計主義でやっていかねばならんのだ。 我、太陽の時刻のみをしるす。そういうことで、明るいことのみを心に刻んでいくということが、大事なのではないのが。罪の子であるとか、業に翻弄(ほんろう)されているとか、両親だとか、先祖の因縁によって自分が縛られているだとか、こうぃう悪しき宗教信仰によって、自分自身を縛ってはならんのだ。 そういうものは本当に拭い去って、捨て去る。そして、ただ今から、自分は、明るく生きていくということを、まず一大決意することだ。これが因縁を切る、カルマを断つ一つの方法なのである。そして今日ただ今、それを決意したのならば、今日ただ今から、自分は心のなかに悪を刻まないと、刻むまいと、はっきり心に誓うことだ。 11.人間は、本当の真理を知ったとき、自由自在になり、明るい人生を生きることができる 結局、この世で生きているうちは、いろんなことが起こる。良いことも、悪いこともあるだろう。地獄に行っている人とは、どういう者たちか。結局人が自分にしてくれなかったこと、人の悪かったことばかりを心に刻んだ人たちが、今、地獄に行って、今、呻吟(しんぎん)しておるのだ。地獄では、心にいいことばかりを刻んだ人などいない。 そういうことで、一日のうちでもいろんなことが起こるであろうけれども、悪いことは小さく、そして洗い流していくことだ。そして、良いことが起こるのは、きっと神様が自分を愛していて下さっているからだと思うことです。良いことが身に降ってきたのなら、それに対しての感謝行をしていく。そうすれば、さらに良いことがくるであろう。また、していく。それが、さらに良いことになっていくであろう。こうして、人間は発展しかない生き方をしていくのだ。 ところが今日、悪いことがあったとする。それを今日、一生懸命、一晩考えてしまうと、夜寝られない。翌日も寝られない、と。こうして悪いことばかりをひき継いでいけば、永遠に明るい人生を生きることはできないのである。 悪いことは小さく受け止め、それを流し去れ。そして良いことのみを心に刻んでいけ。そういう日時計のような生き方のみが、人間を本当に幸福にする道であります。そして、そういう生き方こそが、人間を幸福にするのだということを悟ることが、「真理は、汝を自由にせん」ということなのだ。 古き宗教の因習に執(とら)われ、教えに執われ、自ら不幸にすることなかれ。人間は本当の真理を知ったとき、日時計のように、太陽の輝く日のみを、時間のみを我は刻す。そういう人生を生きることができるのだ。ここに至って、初めて人間は自由自在となり、明るい人生を生きることができるのだ。そして、その生活は、また天国にある生活であり、あなた方が、あの世に帰ったときに、そのように生きていくための準備でもあるということなのだ。このことを、忘れてはならない。 どうも長い間、私の話を聞いていただいてありがとう。八日間連続した講義も、これで終わりとする。 今回をもって一応、私の霊言集は完結するつもりであるけれども、もし読者から、もう一度、さらに再、再度、谷口雅春の教えを聞きたいという声が高まってくれば、また時期をみて出さないでもない。そういうときには、協力を惜しまない。以上であります。
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目次 1.蓮如上人の「親鸞観」について 2.現代の葬式僧侶は 詐欺罪 を犯している 3.迷える先祖、家族霊を救うのは家族の 正心法語 の諭し 4. 性 の倫理をどう考えるべきか 5.「招婿婚」の一夫多婦でも地獄に堕ちなかった 6.許される男女の交際は、お互いの人格向上が基準 7.現代の 性 の乱れは、生活難という社会的制約が元凶 8. 性 の善悪を問う前に社会制度の政治改革が必要 9.簡素ななかの 美 価値基準の転換こそ唱道すべきである 10.なぜラブホテルを林立させ、ボケが流行るのか、経済政策の貧困を正せ 11.宗教的理想、幸福の自己実現の方法とは 12.昔の「他力信仰」に代わる現代の「光明思想」 13.潜在意識(守護、指導霊)への肯定観念植えつけで「自己実現」する 14.昔の阿弥陀様、今は潜在意識 15.長寿、大成功者は、偉大な力への全託者 16.この世での「超能力」だけを説くのは眉唾ものである 17.高額の戒名やむずかしいお経で死者は成仏しない 18.因果はくらますことができない 19.「即身成仏」などはあり得ない 20.親鸞や蓮如の意見を聴いたなら、浄土宗各派は時代遅れしないよう学べ 21. 墓相 を唱える者への警告 22.大安、仏滅、友引は何ら関係なし 23.占星術、姓名判断では人は縛れない 24.御祓で悪霊は払えない 25.滝行、千日回峯行は、皮膚と体を丈夫にするだけ 26.夫婦の正しい心の結び方について 27.「経済理念」のあるべき方向について (1986年8月7日の霊示) 1.蓮如上人の「親鸞観」について 蓮如 蓮如です。 ―― 初めてお招きいたしましたが……。 蓮如 いや、私のほうでは、もういつ呼ばれるかと、ここ数ヵ月、首のまわりを洗って待っておりました。 ―― これはどうも……。 蓮如 あなた方も親鸞様のご本をだすということで、不肖蓮如もどうやら呼ばれるそうだということで、居眠りから醒(さ)めて、頭を洗って、顔を洗って、首のまわりをよくこすって、今、でてきたところであります。 ―― それはそれは、まことにありがたいことでございます。実は、ただ今お話にございましたように、今回私どもが行なっておりますのは、各時代における東西の聖賢方のご意見を今世におきましてあきらかにし、そして人びとの救いの手立てとしようということでございます。 そこで、いろんな方がたのおでましを願ってお教えをうかがっておるわけですが、今回、親鸞様を始めとする真宗関係の聖賢方のお訓えがうけたまわれないということは、まことに残念だという読者の強い要望がございました。ですから、ここに皆様方のお教訓をうけたまわって、現代、及び未来の人びとの生きる上での光とも、指針ともさせていただきたいと思いますので、上人様にもよろしくお願いいたしたいとぞんじます。 蓮如 わかりました。まず最初に、それでは、私の「親鸞観」ということから始めたいと思います。ごぞんじのように、親鸞様は、私より二百数十年前に活躍された方であります。ですから、私は、直接の面識はなかったのです。私は真宗の中興の祖ということで、世に言われていますが、私がなぜ親鸞様を信じて、この信仰に入ったのか。こういうことから、お話していくのが、最初はわかりやすいかと思います。 親鸞様という方は、非常に誤解された方であります。当時、鎌倉時代においても、いわゆる専門家たち、仏教界のなかにおいても、親鸞の思想を本当に理解した人は数少なかったのです。しかも、親鸞を偉い先生として崇め祭っていた人でさえ、親鸞の真意は理解し得ていなかったと、私は思うのです。そこで、なぜ親鸞様が誤解をされたか。私は、このことについて徹底的に考えてみました。 私が生まれた家というのは、お寺ですから、それも親鸞様の教えを継いでいるお寺ですから、もちろん最初からそういうきっかけはあったわけであります。しかし、親鸞様の思想、なぜそれが誤解されたのか。私はこの疑問を徹底的に追究してみました。彼のどこがそのような誤解を生んだのか。世の人びとの誤解を生んだのか。結局のところ、親鸞の教えは、向上の教えではなくて、堕落の教えであると、世の専門家たちは思ったということですね。 宗教家というものは、人間をよい方向へ導いていくのが仕事であります。向上させるのが仕事であります。にもかかわらず、親鸞は、悪人を肯定し、悪人こそ救われるべきだ、と言いました。 ま、これで一般庶民は非常に喜んだわけでありますが、専門家たちは、それでは、おまんまの食い上げです。悪人で救われて、修行しなくて救われるなら、お寺関係はすべて商売が上がったりです。それでは困るのです。しっかり勉強していただいて、尊い教えを聴いて初めて、極楽浄土へ行けるというのが本当のあるべき相(すがた)であると、まあ、僧侶たちは考えたわけです。そして、そのために、自分たちの修行があったのです。まあ、こう考えたわけです。 親鸞様という人は、もちろん無知な人ではありません。彼は、比叡山、叡山において、二十数年間勉強に打ち込み、大変な秀才と言われて将来を嘱望された方です。しかし、その方が、なぜ山を下りたかです。なぜ山を下りたか。その当時、やはり彼は周囲の人たちを見ていたんです。いくら教学をやっても悟っている人はいない、と。自らの栄達を思う心、あるいは自らの知識を鼻にかける心、こうした心を持っている人は数多いのだけれども、本当に大衆とともに、神仏の教えに帰依して、彼らを救っていこうとしている人が、叡山にはいなかったということです。 今の世界で言うならば、いい学校をでて、立身出世をする人は数多かったのだけれども、いい学校をでて、一般庶民のためにつくしたいと思っている人は数少ない。それと同じです。そこで、親鸞は、栄達の道を断って、自ら悩みのなかにわが身を投じたのです。彼は、考えに考えたはずです。 秀才の彼のことですから、さまざまな教典を読んで、その内容を読破したことでありましょう。内容を吸収したことでありましょう。しかし、彼は、そのような勉強のなかにおいて救いがあるわけではないと考えた。やはり宗教というものは、できるだけ多くの人を救うのがその任務ではないのか、と。そこで、彼は野に下ったわけです。 叡山で出世をするというのは、官僚になって立身出世をするのと同じなんで、官僚になって、大蔵次官だとか、そういうものになるのとか、あるいは、政治家で頂点を登りつめたり、あるいはまた、学者で頂点を登りつめるのと同じ道なんです。しかし、そうした道を捨てて、彼は野に下りました。まあ、学問でいうなら、在野の学者ですね。野に下って、庶民とともに考え、彼らとともに苦しもうと、そう思ったということです。 そして彼は、従来の"戒律"、この戒律というものに対する疑問を深くいだきました。戒律を守らなければ人間が悟れないものであるならば、ではなぜ神仏は、人間にこれだけの煩悩を与えたのだろう、と。人間に煩悩があるということが悪であるならば、生まれてくること自体が悪なのではないか。人間には食欲があります。これが悪だというならば、――人間に食欲がないわけはありません――これが悪だというなら、生まれてくることが間違いだったのではありませんか。 人間にはまた、異性への欲、情欲、あるいは性欲といってもいい、こういう欲があります。宗教家たちはみな、これを悪と言っています。しかし、それは本当の善悪の悪でしょうか。宗教家たちは、すべて悪と決めつけていました。異性への思いというのは間違いである。悪である、と。それは、たまたま「釈尊」が出家をして悟ったということに由来しているのでありますが、本当にそうでしょうか。 では、なぜ神仏は男と女とをつくられたのですか。男が女を思う、女が男を思うことが悪であるならば、男女をつくったこと自体が間違いなのではないでしょうか。男として、あるいは、女として生まれてきたこと自体が間違いではないでしょうか。もし、それが間違いであるならば、男だけを、女だけを、あるいは、男でも、女でもない人間をつくればよかったはずです。 神仏は、その気になったなら、人間を雌雄両方の性格をかね備えた動物としてつくることもできたはずです。男性であり、かつ卵でも産んでですよ、子供をつくれるようにしておけば、それなら、それでいいではないですか。しかし、それにもかかわらず、男女をつくり、しかも、男女の葛藤をつくって悩ませて、地獄に堕とすような神仏とは何だろうか。というところですね。やはり、こうした疑問は追究しなければならないのです。 宗教家たちは、もう最初からですね、前提として当然のことながら、肉食すること、食欲のあるのを悪いこととし、男女の欲は悪いことと決めつけています。そして、自分だけが模範生徒になればいいんだ、と。模範生徒ではない人たちは地獄へ行くと言っているわけですね。しかし、人間には、そもそも生まれついた本性がある。その本性を否定すれば本当によくなるのでしょうかね。そうだとすれば、本性そのものが悪いのではないでしょうか。それならば、人間というような、人間として生まれる、その生まれるということ自体において、そのなかに悪を内包する存在だということになります。 たとえどんな聖人だって、食欲のない人はおりません。あるいは、性欲のない人はいないはずです。あるいはまた、睡眠欲というものがあります。この三つの欲望ですね、すなわち、食・性・眠、この三つの欲望というのは断ちがたいものです。これを断って、そして悟れるのでしょうか。私は、これは違うのではないかと思ったわけです。 そして、親鸞様もまた、その疑問を徹底的に追究した方です。一般の庶民たちは、魚も、もちろん食べていました。では、彼らは魚を食べているから、それだけで、すでに救われないことになるのでしょうか。叡山の僧侶たちは、魚を食べていない。豆腐を食べたり、野菜を食べたりしている。だからこそ、悟り、教われるのだ、と。しかし、肉食をしている人びとは、もうそれだけで"救い"ということから捨て去られているのでしょうか。隔絶されているのでしょうか。 こうしたことを徹底的に考えた人はいないのです。ただ昔から、伝統的にそうなっているから、それを守ったというだけにすぎません。よくわからないけれども、祖師の教えを守って真似をすれば間違いがないんだ、と。そういうことでやっていたわけであって、その疑問追究はやっていないわけです。 また、高野山に因(ちな)んだ話がありましたね。苅萱道心(かるかやどうしん)が、父である自分を訪ねて来たわが子石童丸に、"女人禁制"とされていた高野山には登れず、麓に残っていた妻に対して、「父はすでに没したと言え」と偽って子を帰したため、待っていた妻は深雪のなかに死したという苅萱親子の悲劇物語です。まあ、これは、当時においては、女人を修行の妨げとみなしていたことによるのでありましょうが、これが本当の宗教家の姿でしょうか。この見方によると、女はもう悪だと、迷わすものだという考えでしかすぎません。 逆に考えるならば、宗教とは、男だけのものですか。悟りとは、男だけのものですか。人類の半分は女性ではないですか。女性を悪と決めつけるような宗教が、本当に神仏の御意(みこころ)を反映しているのでしょうか。釈尊が言ったことは、女性にして悟ることはむずかしいと言ったのであって、女性が悪だと言ったのではないのです。 なぜ女性が悟るのがむずかしいか。つまり、女性は、俗世に煩わされることが多いからです。それにまた、女性というものに生まれついたことによって、さまざまな人間関係に縛られるからです。子供を産む、子供を育てなければいけない。母親としての役割があります。また、妻としての役割があります。また、嫁としての役割があります。女性はこうしたものに縛られるがために、解脱(げだつ)することがなかなかむずかしい。釈尊はその本質を喝破(かっぱ)されたのであります。ですから、女性を悪と見たのではないのです。悟りにおいて障害が多いと言ったのであります。 それをどう誤解したのか、女性そのものが悪であるかのように、悪魔の手先であるかのように、誤解している人が多かったのです。こうした根本的な問題を、徹底的に疑問追究しなければ、一般の庶民は救われません。ほとんどの人は、男女があいともに暮らして、子供をつくって育てているのです。これが悪でしょうか。もし男女が結婚して子供をつくることが悪であるならば、人類はとっくの昔に、滅(ほろ)びています。善人を目差している人ばかりならば、とっくの昔に亡(ほろ)びています。 それにもかかわらず、連綿(れんめん)と人類は生き続けています。それは人類は悪だからでしょうか。そうではないはずです。神仏の御意は、人類をずっと永代、末代まで生き伸びさせて、そして、魂修行の場を設けようとしておられるはずなのです。であるならば、悪であるはずはないではないですか。 やはり、この辺を考えないといけない。立脚点を、エリートに置いてはいけないということです。親鸞様という方は、その点を徹底的に追究されたのです。ですから、私が見て、親鸞様の立派だと思うところは、今まで既成概念だと思われていたことを徹底的に追究した。自ら勇気をもって、身をもって示したということですね。 私は、近年、"牛痘"というのですか、"種痘"ですか、種痘ということをした医師の話を聞いたことがあります。牛痘、つまり、"天然痘"ですか、それを治すために、そのワクチンを、自分の子供の腕に植えつけたという人がいたはずです。私はそういう話を聞いたことがあります。これもまた、同じような勇気ですね。一歩間違えば死んでしまう。一番大事なものを失ってしまう。しかし、それをあえてやる。真理のために、あえてやる。同じであります。宗教家というのは、みんな、悟りたいと思っている。悟って、天国のいいところに行きたい、と。みんな、そう思っております。浄土のいいところに行きたいと、だれもがそう思っているのです。 にもかかわらず、その一番大切なものを、あえて危険に晒(さら)してでも、やはり真理のために実行せねばならない。そういうことがあったと思うのです。ですから私は、そういう迷いのなかで、大迷(たいめい)のなかで、大悟(たいご)された親鸞様、そういう大きな勇気をもって行動された親鸞様という方に、大変心魅かれたわけです。 とくに、私たちの世もまた、戦乱の時代でありました。このような時代において、一般の人びとが、聖人君子になることはほぼ不可能であります。ですから、如何にして彼らを教導していくか。これを考えない宗教家は、真の宗教家ではありません。叡山に行ったら救われるというならば、一般の人はすでに救われないことになっているのです。むしろ時代が要請したことは、在家の宗教であります。在家にあって、如何に救われるかということです。 これと正面から取り組まないで、山に篭(こも)ってお経ばかりあげたり、教学ばかり勉強しているようでは、どうして一般の人は救われますか。自分だけが救われようとしている気持ちは、すでにエゴイストではないですか。自己中心主義者ではないですか。こういうことがあったのです。 今の方がたから見てもね、親鸞様の考え方には、よく分からないことが多いと思います。なぜ悪人が救われるのか、と。まあ、一つのね、異説、変わった説だととられるぐらいがおちです。その本当の真意を汲み取ることは、むずかしいです。ただ、親鸞の考えというのは、まあ一つのアンチテーゼであります。従来のね、固定概念がある。釈尊の死後、すでに二千数百年経っています。そして二千年も同じ考えが連綿と続いて、まったく紋切り型で、形だけを真似ている。同じかどうかは分からない。宗教家というと、もうお線香をたいてやっている。線香などはね、日本では必要ないのです。インドの地で線香をたいたのは、かの地では蚊とか虫が多かったからです。修行に差障(さいさわ)るからそういう香薬とか没薬(とうやく)を用いて修行していたのです。ですから、お綿香をたくことが目的ではなかったのです。ところが、そういう形ばかりを真似ている。 私たちは、もう形を捨てた。真理というものは、自由自在なものであり、時代に応じて変幻自在に現われてくるものだと、こういう柔軟な思考をですね、したわけです。私が蓮如としてでたときも、もちろん親鸞様のあとを継いで、この真宗をおおいに広めるという目的を承知の上で、この地上に生まれてきています。まあ、その目的は一応達したというわけであります。しかし、その真宗の教えが、今の時代に伝わって、"浄土真宗"はずいぶん人口が多いようですが、そのなかにあってまだ、形にとらわれている人たちが多いのも事実であります。 他力信仰というと、何かもう題目を唱えているような、すなわち南無阿弥陀仏と唱えていたら救われていたように思われるけれども、当時においては、これはもう画期的な教えであったのです。まあ、当時の新興宗教なわけです。非常に画期的な教え、斬新な考えだったわけですが、今においては、そうではありません。ですから、むしろ今の時代に私たちがでて来たならば、今の浄土真宗を攻撃するかもしれません。そんな考えにいつまでも執われるなというかもしれません。まあ、そういうことが私の「親鸞観」でありますが、このことについて、何かご質問があれば、お聞きください。 2.現代の葬式僧侶は"詐欺(さぎ)罪"を犯している ―― 親鸞聖人には、昨日その辺のところのお話をいろいろくわしくお聴かせいただき、大いに教えられるところがございまして、感謝いたしております。蓮如様につきましては、そのご宗旨の本義ということもさることながら、やはり上人様には、当時、ご活躍されたその縁(よすが)というか、ご様子というか、その行動力の活力となったものを、実はお聴かせ願いたいと思っております。そして、私どもが、今日新たな教えを広めようとするにあたっての責重な指針とさせていただけるなら、非常にありがたいと思うのでありますが、お願いできましょうか。 蓮如 わかりました。それでは、他の方がたがおそらくは話をしないであろうと思うようなことについて、私はあえて話をいたしましょう。 鎌倉、あるいは室町の時代においては、要するに、僧侶は独身か、妻帯かという選択を迫られました。そして、一般の人は妻帯をしているということで救われないのかどうか、妻帯したままであっても、他力信仰によって救われるのかどうか。こういうことが、いわゆる争点であり、焦点であったわけです。 しかし現代、私たちの眼で現代を見た場合、何が問題か。現代では、僧侶もすべて妻帯しています。結婚していない人というのは、非常に珍しい。ところが、家庭生活を営んでいる僧侶のなかに、また高僧が少ないことも確かであります。ですから、親鸞様同様、私も、その後の仏教を堕落せしめたとずいぶん批判が多かったことも確かです。つまり、僧侶というのは、「真理」を求める者であるにもかかわらず、それが生活になってしまっていたということです。仏教者がね、そういうお勤(つとめ)をするべきであるのに、生活になっている。勤行(ごんぎょう)し、まあ写経をしたり、それを声にだして詠んだり、あるいは、お葬式にでて行ったり、そういうことが、要するに職業になっています。 ですから、現代において、たとえば私たちがでたとするならば、何をどう改正するか、改革していくか。こういうところが一つの視点だと思うのです。またこれが、あなた方が知りたいところだと思います。 あなた方がやっているような、こういう"霊界通信"ですか、これは、近年イギリスなどを中心にして興ったような、スピリチュアリズムというのですか、まあ、そういうもののように考えられております。一つの新しい、まあ、精神科学ですね。こうとられていますが、いわゆる宗教家のなかでもプロといわれる人びと、あるいは、神社、仏閣で、神主だの僧侶などをやっている人によっては、また遠い話でピンとこないのです。そういうことは、興味としてあったり、ほんの知識として読んだり、教養として読むことはあっても、自分自身にとってはピンとこないのです。つまり、そうしたことは別世界の話だと思っている人が多いのです。 ですから、宗教の大学をでて、宗教大学の学長などをやっている人であるにもかかわらず、いいですか、本心において魂などを信じていない人がいっぱいいるのです。形だけでね、学問だと思っているのです。だから、何とか経にはこう書いてあるとかね、そんなことばっかりやっている。釈尊が思想家だと思っているのです。救うということを忘れている。これについては、たとえば、一般の人びとの信仰に対しても同じことが言えます。「うちのお爺ちゃんが死にましたから、偉い先生、どうか一つお念仏をあげてください」と言われても、せせら笑っている。そんなことね、念仏をあげたところで成仏するわけじゃないが……と腹のなかで思いながらやっているんですね。形だけのことを。 あるいは、偉い学長さんの話でね、最近、私はこんなことを聞きました。まあ、真宗系ですけれども、その信者がね、言ったんです。「家の者が死にましたので、ちょっと来てください。真宗系統では、死んだときに念仏を唱えないと、お棺のなかになかなかうまく納まらないと言われています。そこで、先生、この死者をもうそろそろお棺に入れますから、お念仏を唱えてください。そしたら、死者も安らかになって、体も、手足の骨も柔かくなり、お棺のなかに収まりますので、先生、どうかお念仏を唱えてください」と。すると偉い大学の学長さんで、真宗を専攻しておられるその方は、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、形だけね、そう言われたら、気安めだから拝んであげましょうと、お念仏を唱えるわけですね。 こういうことをして、得意気になっている人がいるんです。お坊さんに何か拝んでもらわないと体が柔らかにならないと思っているとはと、馬鹿にしているわけです。しかし、本当の魂の真実においてはどうかというと、その民度の低い人びとのほうがむしろ正しいのです。 実際に、死ぬときに、硬直する人がいるんです。死ぬときに体が碓かに硬直する。なぜ硬直しているのか。要するに、魂が肉体からだされるのが恐いのです。ここ以外には住家がないと思っているんですね。だから、お棺に入って焼かれるのがいやなのです。このように、迷っている魂がいるんですよ。焼かれては困る、と。お棺に入れられて、火葬場へ行ったら焼かれてしまう。知っているんですよ、彼らも。だから、何とかね、焼かれるもんかと、肉体を守らねばならんと、硬直するんです。体がね、抵抗しているのです、霊が。 こういう人に対しては、教えてあげなくてはならない。あなたは死んだのですよ。死んであの世へ行くんですよ。肉体は仮の姿ですよ、と。これは本当の姿ではありません。あなたは魂として、あの世へ行って、あの世で修行させられるのですよと、本当はこういうことを懇々(こんこん)と諭(さと)さねばいけないんです。 そういう死者に対しては、肉体に執着をもっている死者に対しては、それを諭さねばいかんのです。それにもかかわらず、それすら知らない僧侶がおるということです。偉い人でね、そんなことすら知らない。そんなのは気安めだと思っている。馬鹿馬鹿しい、そんなのは民間信仰だ、と。体が折れるだとか、折れないとか、お棺にうまく入るだとか、入らないだとか、こんなことあるもんかと思っている。そういう人がおるんです。しかし、こんな人は職を辞しなさい、と私は言いたいのです。こういう人は、いくら知識だけを詰め込んでも、何も解っていないのです。本当の魂のことが、わかっていない。 ですから、あなた方はね、現代にでているわけですが、私たちも現代にでたら、まずこの僧侶たちに対して、本当の正しいものを教えなければいけない。どうも葬式仏教に堕してしまっている。だから、まずは、葬式仏教の改革が一つ必要です。僧侶たちが死後の世界、魂の世界を知らないのにもかかわらずそういった職業につくというのは、これは詐欺(さぎ)です。"詐欺罪"です。はっきり言ってね。 信じていないのに、自分が死後の世界を信じていないのに、それを職業とするのは、詐欺ではありませんか。あの世は「ない」と思っているのに、袈裟法衣(けさごろも)を着て、お経をあげて、なぜ、お礼を貰うのですか。帽子を被ってバイクに乗って来て、最近では自家用車で乗りつけて来てですね、そして一時間、二時間、お経をあげる。本人は意味も何もわかっていないのにお経をあげる。周囲の人びとは、退屈で、退屈でしょうがない。とくに夏の暑いときなどは、大汗流して、足にしびれが切れて立てない、と。そして、やっと終わってくれてありがたい、と。ありがたいというのは、終わってくれてありがたいということですよ。それで、掌を合わせている。こんなことばかりしているのです。こんなのは、心が入っておりません。 現代の僧侶は、そういうお経をあげるのではなくて、むしろ法話をせねばならんのです。死者というのは、実は、肉体が死んでからも、まだ二日、三日は体から離れていません。さきほどのように、肉体に執着している霊もあります。ですから、そういうお棺を置いておいて、その場で、家族の人、親戚の人を集めて、本当の死というものは何かということについて、僧侶はお話ししなければいけないのです。もちろん、現代語で、わかるようにね。「皆さん、この家の何某という方が亡くなりました。亡くなりはしましたけれども、どうかご安心ください。肉体が、すべてではありません。人間には、死後の世界というのが待っているのです。そして、その後の修行があります。まあ、この方が生きているときにどういうふうに生きられたかわかりません。ただ、ご立派な人生であったと私は聞いておりますので、きっとそのみ魂は天国へ昇られるでしょう。しかし、天国へ昇られたとしても、そこも修行の場ですから、しっかりとね、いろんな方の守護指導を受けて勉強しなければならないようになっているのです。 あるいは、運悪く地獄で苦しまれることがあるかもしれません。もし暗い世界へ行かれることがあったら、それは地獄でございます。もし地獄に堕ちたならば、自分が地獄にいるということを自覚されて、生きていたときに、生前、何が間違っていたのかをしっかりと反省してください。その反省が終わらないと、地獄からでて来ることはできません。生きていたときに、人の悪口を言わなかったかどうか。人を責めなかったかどうか。自己本位のままに生きたかどうか。要するに、人を愛したり、生かしたりしたかどうか。こうしたことを徹底的に反省しなければいけないのです」 このように、お坊さんは、その霊が地獄へ行く可能性があるからこそ、反省という方法を教えてあげねばいかんのです。何も知らないでね、死ねばすべては終わりだと思っていた人は、死んで終わりでなかった場合、どうしたらよいかわかりません。そういうことは、学校で教わっていませんし、あの世で教えてくれる人もおりません。だから、地獄の深いところへ行って、孤独なのです。ただ一人暗いところへ行って、迷っておるのです。どうしていいかわからないのです。 3.迷える先祖、家族霊を救うのは家族の諭(さと)し 蓮如 してみれば、頼るのはこの世の人です。とはいえ、この世の人に頼っても、この世の人も何も悟っていません。お坊さんのところへ行っても、お経をあげるだけです。といって、お経をあげられても、全然成仏できないんです。だから、家族のところへ行きます。しかし、彼らにも、どうしてよいかわかりません。自分は地獄に行っているのだけれども、どうしたら救われるのか、と。たとえば夢枕に立ったとしましょう。しかし、家族たちは、何も言うことができません。何とかさんがね、どうも迷っているようだとは思うかもしれない。迷っていると思ったら、どうするか。お線香を立てて、ろうそくを立てて、チーンと鳴らしてね、掌を合わせて、それで終わり。あるいは、お墓参りをする。お墓へ行って、花を立てて、水をやる。これで、終わってしまいます。 しかし、これでは救われないのです。これでは、救われるわけはない。本当は、諭(さと)してあげなければいけないのです。なぜ地獄へ堕ちたのかを。地獄に落ちた人は、やっぱり生きていたときに、人のためにはつくさなかったのです。自己本位のままに生きていたのです。人間というのは、神の法則のもとに生きているのです。ですから、その法則に外れると、やはりそのぶんだけ、軌道修正をしなければいけなくなるのです。地獄に行っているような人は、生きていたときに、死ねばすべては終わりなんだと思っていた人がほとんどです。そのため、生きているときに、やりたい放題をやってきたはずなんです。そういった人たちには、やはり反省ということが大事です。反省をしなければいけないのです。 ですから、お坊さんはね、法話の話ですが、葬式のときには、そういうありがたい「神理」の話を、遺された家族の人たちにしなければいけないのです。死者は、まだ狼狽(ろうばい)していてわからないかもしれない。しかし、家族の方がたには、こういうことなんですよと、神理を教えてあげる。そして、あなた方がお墓へ行くなり、仏壇に掌を合わすときには、それを口で言って、死者に聴かせてあげなさい、と。「お爺ちやん、あなたは死んだけれども、死んで肉体はなくなったけれども、魂というのはあるのですよ。あなたが、もし自分が生きていると思ったとしても、それは肉体ではなくて、霊体として生きているんですよ。霊体として生きていくために、あの世というのがあるのですよ。この地上は、もう、あなたたちが住むところではありません。お爺ちやんは、天国か、地獄か、どちらかへ行かれるんです。そこで、いずれにしてもね、修行されるのですよ。だから、そちらの人の偉い方の話をよく聴いて反省して、修行してください」 こういうことを真に、心のなかから言ってやる必要があります。そうすれば、死者は成仏するはずです。 死者の霊というのは、通常、頼るところがないから、生きている人のところへでてくるのです。憑依(ひょうい)霊とかよく言いますね。憑依とかよく言います。憑依とか、こんなことあるんでしょうかとよく言います。あるんです。現にあります。「溺れる者は藁(わら)にも縋(すが)る」とはよく言われることです。あなた方もそうでしょう。自分が死んでしまえば終わりだと思っていて、死んではっと気がつくと、まだ生きている。生きているはずなのに、自分は真っ暗な底にいる。これは大変ですね。何とか助けてほしい。助けてほしい、助けてほしいと言っていると、どこか遠くでどこか見たような人影が見えてくる。 これが家族ですね、遺された家族。そこで、「あっ、いた。助かった」とね。だから、助けてもらおうと、子孫のところへでて来て、腰にしがみつく。腰痛が起きます。助けてくれえーと足にしがみつきます。リューマチになります。助けてくれえーと頭にしがみつきます。これで、ノイローゼになっていきます。こういうふうにして、体の調子が悪くなって、子孫に不幸が起きていきます。こういうことがあるのです。彼らは、ただわかっていないのです。別に悪を働いているわけではありません。ただ遺された子孫の方がたに、いろいろ問題が起きてきたら、病気がでたり、事故が起きたり、家族の家庭争議が起きたりしたときには、もう一度皆さん集って、よく考えてみてください。何か問題があるのではないかと、死んだ人も迷っているのではないかと、あるいは、生きている人も、心に何か誤りがあるのではないか、と。こうしたことを反省していただきたいのです。 やはり生きている人が「神理」を悟って、明るく正しく生きていくことが、最高の教えなのです。これが最高の供養になるのです。死んだ人は、まず家族の人のところへ来ます。家族たちが神理に則った生き方をしているかどうか、これを見るんです。それで教わっていくんですね。だから、あなた方がみんな、死後の世界をよく知って、その知識を知って、そして悟っていくことですね。そうすれば、ご先祖も必ず悟ることができるはずです。 私は、あなた方の商売の援助をするつもりではありませんが、できるだけ多くの日本人、あるいは、世界の人びとの一人でも多くが、この「霊言集」を読んで、死後の世界があることを、そして、こういう世界になって、こういう法則があるんだということを、しっかりと知ってほしいと思います。まず、知識が前提です。知っていないと悟れません。知っていて、次の段階として、これを行動に移すということです。これが大事です。 まあ、少し長くなりましたが、とくに、お坊さん方ですね、僧侶たちはこれを知って、要するに生きている人に説かなければ、これはもう職業的に詐欺罪です。こういう方は、あの世に還ったら、絶対反省させられること間違いありません。わけのわからないお経だけをあげておったのでは、ダメなのです。死後の世界について、本当に探究心を起こしなさい。大学で学問的に教わって、単位を貰えばいいというだけではないのです。これをね、個人としても、教養としてしっかり身につける。単にお経をあげるだけではないのです。 もちろん、お経をあげてもいいけれども、それが終わったら、皆さんにわかりやすい説法をしなさい。これが一番大事です。これも宗教改革の一歩です。葬式仏教で終わったのではいけないのです。死後の世界について、説明してあげなさい。そうあってこそ、本当の専門家でしょう。それができないのであれば、もう僧侶はやめたほうがよろしい。これが宗教改革の一歩だろうと思います。
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目次 1.鎌倉期に仏教の花咲かせた我ら 2.精神統一は、内省が主眼 3.この世での他力依存心に 一喝 与えよ 4. 禅 は日本独自の文化を生んだ (1986年8月15日の霊示) 1.鎌倉期に仏教の花咲かせた我ら 栄西 栄西です。 ―― 栄西先生ですか。突然お招きいたしました。私どもは、ご承知のように、聖賢方をお招きし、お教えを承り、そして、現代の日本人、あるいは、中国はじめアジアの人びと、あるいはまた、将来は世界の人びとに、これからの人間の生きる道というものを説き明かそうという計画を持っております。今回は、仏教、とくに禅宗関係の方がたからお説をうかがって、一冊の書物に編集いたしたいと思っておりまして、過日は道元先生から、また本日は無門先生から、それぞれのお立場からのご高説を承りました。 栄西先生は、何と言っても、我が国、禅宗の宗家でもあられるお方ですので、現代の人びと、また後代の人びとに対し、禅の真髄をお説きいただき、魂修行の指針となるべきお教えを賜らば幸いと存じますが、お願いできましょうか。 栄西 わかりました。 ―― まず、私どもが書籍で著す栄西先生のお言葉となりますと、一応、人びとは、これ、はたして栄西禅師のお言葉であるかどうか、ということになりますので、願えますならば、現世における栄西先生のご活躍の一端なりと、お話し願って、それから本論に入っていただければと思っております。 栄西 まあ、あなたとは、ほぼ同時代ですしね。同じ頃にね、まあ鎌倉時代にね、活躍した人間同士ですから、まあ、あまりかしこまって言われると、私も困るんですが、まあ、あなた相手には、話はしにくいんですよ。皆んな一緒ですよ。鎌倉時代には、何十人も皆一緒に集まってね、ひとつ、仏教の種を播(ま)こうではないかとね、相集いましてね。日蓮さんもね、法然さん、親鸞さん、道元さん、一遍さん、唯円さんね。まあ、他にもたくさんおりますけどね、栂尾(とがのお)さんもいたね、明恵(みょうえ)さん。 こうした人たちが相集ってね、そう、鎌倉、室町になっての蓮如さんね、こういう人たちが皆んな集まって、まあ、ひとつ日本が、将来どうも仏教をもう一回伝えるようになりそうだから、法燈を継ぐのはどうやら日本だ、と。釈迦の仏教をもう一度、日本でね、広めたら大変意義があるだろうということで、集中して、日本に出て来たんです。 あなたなども一緒でね、出る前に、お互いに、ずいぶん話をしたし、まあ、今回出るときも知っていますよ。まあ、ご苦労なことです。私はこちらで楽させていただいていますが、ご苦労なことです。まあ、よくやっておられるようで、感心しています。 ―― 私は浅学非才で、今回、このような大役を仰せつかるとは思ってもいなかったのですが、蓋(ふた)開けてびっくりというのが現状でございます。 栄西 まあそうだね。あなたと私では、先生と弟子の関係にならないですから、まあ、同級生というかね、友だちですよ。私もね、友だちが多くて、この世では友だちがあまりないけれど、あの世には、友だちが多くてね、あなたも多くて困っておられるようだけど、まあ、私もそのひとりで、あなたが今度出るときには、「まあ、頑張って来いよ」と、肩を叩いて出したひとりですよ。 ―― ああそうでしたか。それはそれは……。 栄西 まあ想い出さないでしょうね、そういうことは。 ―― そちらのほうへ環ったら、いろいろなことを想い出して、お礼を申し上げることになると思いますよ。 栄西 いやあ、あんた、気が多くてねえ、「栄西よ、わしや、禅を伝えることぐらいじゃ出んぞ」と言っていましたよ。「もっと大きなことをやるからね」と言ってね。まあ、あんたの仲間もね、あと二、三人出ているから、もうすぐ逢うと思いますよ。 ―― つまり、六老僧の人たちでしょうか。 栄西 そうそ、まだ出て来ますから。 ―― 現在の現象世界にね……。 栄西 そうです。出てますからね。そのうちに逢うと思いますよ。 ―― 日蓮さん、今のところ、そういうことはおっしゃらないからね。その方は、やはり仏教関係のことをなさっておられるのですか。 栄西 いや、仏教関係の僧侶というわけではないけどね、あなた方の仕事を、また手伝ってくれることになると思いますよ。六老僧が、まだ後、出ていますから。あなた方の教えに、今後協力してくれると思いますよ。まあ、そのうちに日昭さんとか、日頂さんとか、日向さん、この三人が今出ていますから、あなたが活躍しはじめて、彼らもそろそろ気がついてくる頃ですから、後三人、同志が出ていますから。 ―― 現在、在家の人ですか。 栄西 そうです、在家です。やがて、寄って来ます。あなた方、これから、"法"を説いていかれるのでしょうから、やがて寄って来られますから、楽しみにしていて下さい。あなたのお友だちです。 ―― 現在のところ、そういう方との交渉はないですね。 栄西 まだないです。今後出て来ます。数年以内に出て来ます。まあ、そのときはね、天上界に残した友だちと地上に残った友だちということで、まあ、両方頑張ってやってゆきましょう。 2.精神統一は、内省が主眼 栄西 まあ、こんなことばかり話していたんじゃあ、「栄西の霊言」にはならないでしょうから、では、何から話していきましょう――。 ―― まあ、お立場からすれば、「禅」ということですから、禅ということについてお話願えればと思いますが。 栄西 禅もね、もう禅、でもないんだけどね。この世へ来れば、あなた方から言えばあの世ですね、まあ、こちらに来れば、もう足もないしね。あなた、足組んで坐禅しているわけにはいかないんだから、私しゃ、まあ、足がなくて、空中ふらふら飛んでいる螢か、火の玉か、というようなもんですから、禅でもないですが。火の玉に禅、などいうもの、ないもんね。 ―― まあ、しかし、長年の魂のよりどころとして、あなたは、仏教系のなかでも禅の教えを通して、世の人を指導してきたということでございますからして、何かその辺の心で、現在の人びとの生き方について、ご指導願えたらと思うのですが。 栄西 そうね、他の人がどうやら古いことばかり言ってるようだから、まあ、ちょっとは新しいことも言わねばいかんようですな。禅がどうこうということは、今の私の意識から言えば、少し離れてきているのですが……。 そうね、禅では、人類は救えないですね。現在の時点では、禅では救えないね。まあ、これをどうするかだね。まあ、ただね、禅、のなかに学ぶべきものがあるとすれば……。まあ、あなた方、心の教えを説こうとしておられるけれど、やはり個人個人にとってみれば、皆んな何か修行したいと思っているんですよ。だからね、その修行の方法が何もないとなれば、これまた、つらいことになるんです。 そうぃう意味でね、何も禅でなくていいが、やはり何かね、人間というのは、修行したいと思っていますから、その修行の方法ですね、それを考える必要があります。ま、そういう意味ではね、禅というのもひとつ勉強になると思うのです。どうですかね、あなた自身にとってみて、修行とか、そういうもの、何か考えていますか。 ―― まあ、生身の人間は、何もやらないと心身を崩してしまいますので、何らかの行法という形式を通して心を磨いていかねばならんと考えております。 栄西 ただね、あまり禅、とか精神統一をやると、どうも宗教的になってまずいところもあるだろうし、まあ、むつかしいところでね、どうしようか。 ―― それでは、禅によらず何か……。 栄西 まあ、精神統一についちゃあ、ちょっと話しとかな、いかんな。まあ、現在でもね、精神統一というのは、やっていますね。"瞑想"とかね、英語で言うとメディテイション、というのですか。あるいは、"ヨガ"、もちろん、"禅"もありますし。会社などではね、現在ヨガなどもずいぶん流行(はや)っているそうですが。まあ、会社では、なかなか禅、まではいかないけれどね。まあ、禅もひとつのブームだね。スポーツとまではいかないけれど、もうちょっと知的なスポーツだね。そういうことで、休日に禅をやっていると言うと、まあ、そう聞こえが悪くない。それと禅、のいいところは、それほど色が着かないというところだね。 たとえば、普通の人であっても、――「私、禅をやっています」と言ってもね、危ないから近寄るのを止めようと言う人はいないですね。禅、やっている分には、別に悪影響はないということですね。友だちに禅をやっている人がいたって、別にかまわない。ただね、友だちがね、新興宗教の何とかをやっていると言うと、これは怖がって、近寄らなくなる。何か折伏(しゃくぶく)されるんじゃないかとかね。何か洗脳されるんじゃないかと思って、逃げちゃう。 だけど、"禅"をやっているというと、とくにね、どうってことはなく、「ああそうか。なかなかやるじゃないの、頑張っているね」と、まあ、"ヨガ"だってね、そんな感じがあるけどね。いいんですよ。男性は禅、女性はヨガが流行ってきているようだけど、こういう意味で、まあ、あなた方の教えもあるんだろうけど、こういう無色透明なところっていうのは、けっこう大事だと思うんです。 あまり、何と言うかな、宗派によってどうにかなるという、信じ込むと言うんではないから。禅、その一番いいところはね、信じ込むところが、ないからね。現代人がとくに嫌(いや)がるのは、その狂信妄信なんですね。信じ込むってのは嫌がる。こういうことがあるんですね。要するに、疑心暗鬼だね。あまり人の言うこと、信用したくないし、信じ込みたくないという気持ちがありますからね。そういう意味では、自分自身でやって、納得がいくのであれば、それでいいでしょう、と。こういうことが、禅、ですな。 だからまあ、あなた方も教えを説かれるにしても、それをそのまま鵜呑みにしなさい、信じなさいと言うだけではね、やっぱり今ひとつもの足りないと思うんですよね。だから、無色透明な部分がね、何かいるんじゃないかとね。そういう気がしますね。 まあ、精神統一というのは、そういう禅とか、ヨガ、とかいうことで流行っておるわけだが、何のために、精神統一するのかね。この点を、はっきりしておかないと、ま、意味がないでしょう。あなた、精神統一って、何のためにすると思いますか。 ―― まあ、それはね、人それぞれの考えがあるでしょう。心を空っぽにして、あるいは、無にして坐っているという人もおるでしょう。けどね、心を無にしようと、空っぽにしようと思えば思うほど、しょうもない雑念が涌いてきて、一向に空っぽにはならない。 そうであるなら、今日一日のこと、あるいは、昨日のこと、あるいは、もっともっと前のこと、そのときどきの自分の判断や、そう判断して行なったことの結果が、相手に、また、自分にどう影響したか、ということを考えてみるようにしたりしていますが、まあ、反省ということも込めてね。 栄西 まあ、精神統一とひとくちに言っても、なかなかむつかしいんだけどね。人間、やはりね、内省するというか、自らの内(うち)を省(かえり)みるという、こういう機会があんまりないんですよね。そういう意味では、精神統一で一番いいのは、まあ、内省だね。こういうことで、いいところがあると思うんです。 じゃあ、何で内省、がいいのかということですが、たいていの人間は、内省などしたことがないんですよ。まあ、その日その日を生きとるんですな。今日は会社で上役に叱られた、と。ボーナスが少なかったから自棄(やけ)酒飲んで帰って、母ちゃんと口げんかしたとかね。子供の通信簿の点が良かったとか。悪かったとか、こんなことばかりです。こうしたことでまあ、日々過ごしとるわけです。しかし、そういうことだけではやっぱり何の向上もないわけです。 だから、ときどきね、自分というのを、良くしていきたいのかどうかですな。まあ、内省の必要性というのは、要するに自分を良くしていきたいのか、どうかということです。人間は、別にそんな悪い存在であると思う必要はありませんが、それでもやはり、軌道修正はしていかないと、いけないでしょう。 ですから、精神統一のなかに、「内省」あり。内省の意義は、"人生の軌道修正"にありと、こういうことであります。常々、自分の人生を軌道修正していこうと思っている人は、そんなに大きな間違いはありません。たとえ自分の考えていることが正しくても、それを押し通そうとすると、人間、無理がけっこう出ます。正しいことだと信ずることは多いんです。ただ、それを押し通そうとすると、どうしても無理がある。そして、対人関係でいろんな不和が起きてくる。――こういうときは、踏み止まって、一歩退いて考えてみる必要があるのであります。 たとえば、あなた方の教え、これはほんとうにいいと、真底いいと思っていて、心酔する人がおりますね。そして、これが絶対だと思って、人に押しつけるということになると、これまた、問題があるんです。正しいものであっても、それを受ける、受け入れないは、各人の問題です。 ですから、それをたとえば、ある人はゴリ押ししてね、「これは、栄西が言っているのだから、間違いない。だから、このとおりやりなさい」と。「しかし、これは栄西かどうかわからないから、私しゃ、参考になるところは参考にするけれど、まあ、丸呑みにはできない」と、まあ、ある人はこう言うでしょう。――そんなことではいけないと、一生懸命折伏などしていると、これはどこかおかしいのであってね。 正しいということは、必ずしもその人の生き方を説明はしないんです。説得的なものではないんです。正しいから思ったとおりにやったらいいかと言えば、そうでもない。やはり、やり方というものがあります。手段方法というものがありますから、これをよくよく考えて、他人と自分の人間関係、これの調整をやっていかねばなりません。 だから結局ね、精神の統一というものを考えてみると、人間生きていく上で、まあ、物質と自分の調和など、それほど関係ないですね。それと、動物と自分というのも、それほど重要な関係ではないですね。後、残っているのは何かと言うと、自然との調和と言っても、緑や風と調和するわけじゃないから、花とお話しするのはよほどの霊能力者か、あるいは、精神病院へ入るかのどっちかですから、後は、要するに人間ですわね。人生修行で、その媒体となるものは何かと言うと、結局、人間の集まりですね。そういうことで、人間関係の調整をやらねばならない。 その人間関係の調整も、「正師」がいて、その人が教え導いておれば、それはそれでいいんでしょうが、そういう人にはめったに巡り会わない。そういうことで、まあ、自分でやはりやっていかねばならない。それで、人間関係を調整する意味で、心静めて、よく考えてみる。自分のひとつひとつの行動を振り返ってみる、と。こういう必要があると思うのです。 こういうことをやっている人と、やっていない人とでは、ずいぶん大きな差が、やがて出てくるはずなんです。とくに若い人は大事ですよ。若いうちからこういう習慣をつけておくと、年取ってから、ほんとうによかったと思うような、黄金時代というのが来ます。 3.この世での他力依存心に"一喝"与えよ 栄西 若いときに勝手気ままやって、年寄って、急に、心を入れ換えようと思っても、そうはいかないんです。なかなかに。そりゃあ、"前後際断"などと言う方もいらっしゃるけれど、普通の人では、年寄ってから自己を際断するなどということは、そう簡単にできるものではありません。だから、あなた方の「霊言集」を読むことによって、まあ、一冊の本のなかに、その本としての答えがあるということですね、それでもいいんですよ。 あなた方の事務所へも、いろんな人が面談を申し込んで、面接して下さいと言って来ているでしょう。会いたい、会いたいとあなた方にね。いろんな人が、一時間、二時間でもいいけど、一日話したらもっといい、と。一週間連続で聴かせてもらえたらもっといい、と。そういうことはあるけど、それをそのとおり聴いていると、体が持ちませんからね。 やはりそこで、"禅"の世界もあるわけですよ。「これを読んで考えてみなさい」と。あるいは、「霊言集を全部、三回ぐらい読んでから、もう一回おいでなさい」と。まあ、これでも私はいいと思いますよ。とにかくね、とにかく人間というのは、あまり自分で努力しないで、人に教えてもらおうとする。とにかく、答えをほしがる。問題を自分で解くという努力を惜しんで、とにかく、答えをほしがる。これが人間の悪い癖ですね。依頼心が強いことです。 それはね、ひとりひとりの人の悩みに答えてあげたら、それはいいんでしょうけど、悩んでいる人にとっては最高でしょうが、残念ながら、そうはいかない。そういう意味では、逆に言うと、私は、禅の世界の意味を利用してほしいと思うのです。 禅は、各人の悟りということ、個人が独力で悟るという世界です。もちろん、あなた方がヒントを与える必要があります。しかし、そのヒントを持って、問題を解くのは、各人です。そういう形でいいと思いますよ、突き放して。だから、その人が、「たって」と、相談があれば、ああこの人の心性がこういうところにあるなと思えば、たとえば、霊言集なれば、「この本を熟読しなさい」と。ここにヒントがあるはずですと言えます。こういう形でいいと思いますよ。 まあ、そういう意味では、あなた方、書物をつくられる意味で、いろんな人の悩んでおられるようなことも、念頭においてつくっていかれる。こういうことも大事だと思いますよ。結局ね、やはり甘えになりますから、"他力信仰"といってね、あの世の人を頼りにする信仰もありますが、この世でも、"他力信仰"があるわけです。生きている人に頼ろうとする。これも他力信仰で、三年経ってからいらっしゃい、というのであってもいいんですよ。 何かをつかんで来い――、というのであってもいいんで、あまり親切すぎてもいけないのです。そういう人には、"一喝"与えることが、ほんとうにその人のためになるんです。まあ、禅のほうでね、今、現代に採り入れる教えがあるとするならば、さっきも言った、何らかの精神統一、という意味と、そういう意味での、個人の悟りであるということです。あくまでも悟りは、個人のものであると、そういうことで、ヒントは与えるけれども、解答を出すのは各人である。 あなた方が、「右にしろ。左にしろ。まっすぐ行け」といちいち、個別の指示を出しているひまはない。だから、ヒントを与えて、向こうが向く方向でいいと思うのです。まあ、こういう点が、禅から、今、あなた方が学ぶべきところじゃないかと思います。 4."禅"は日本独自の文化を生んだ ―― そちらでは、たとえば、禅なら禅、その他、仏教系の方がお集まりになって研究とか、お話しあいになるような機会はあるのでしょうか。 栄西 あります。しょっちゅうやっております。やはり類は友を呼ぶというわけで、似たようなタイプが集まって、話しているわけです。 ―― 無門さんなどもご一緒ですか。 栄西 いや。偉い方ですからね、まあ、あの人は。もちょっと偉い方ですからね。 ―― では、如来界の方ですか。あの方は。 栄西 まあ、私はよく存じませんが、私たちよりかは偉い世界におられる方ですから。まあ、禅の話もされるでしょうが、実際は、禅を超えたところで働いておられることが多いのです。いろんなところでね。人類のいろんな思想、思潮というものを司(つかさど)るというような仕事をしておられるようです。私らは、どっちかと言うと、仏教のなかの一分派でまだ甘んじているところがあります。 ―― 近年、我が国に出られて、他界された鈴木大拙先生は、あなた方とご一緒におられるのでしょうか。 栄西 いや、鈴木さんはね、人間界から還ったばかりですから、ちょっと違いますがね。 ―― 鈴木先生は、かつての禅宗の始祖、達磨大師の再来と聴いておりましたが。 栄西 まあ、これは他人のことを言うと失礼なことになりますので………私はよく知りませんが、ま、達磨の悟りそのものが、釈尊の悟りから比べれば、やはり数段落ちていたことは否(いな)めないと思います。釈尊が分かり得たところを、達磨(だるま)は十分の一も分かっていません。 ―― 達磨大師は、インドから中国に渡られて、"禅"を広めようとされたわけですね。 栄西 そうですね、ですから、"禅"というのもある意味では、大衆普及化したこともあるんです。そういう意味において、教えの中味が骨抜きになったことによって、逆に広がった面もあるのです。とりあえず、そういう禅、というものを組んで、考えてみようというような、そういうスタイルですね。 まあ、現代風に言うなら、ライフ・スタイルと言いますかね、そういうものをつくったということでもあります。禅、というライフ・スタイルをつくって、それで、ある意味で、文明的に滲透させた。まあ、禅、が影響した会合もあれば、お茶、茶の湯などもそうですね。いろいろあるはずです。禅が影響したものというのは、そういうもので、ひとつの精神文化をつくるための役割をはたしたと思います。 だから、"達磨禅"それ自体がそれほどのところまで悟っていなかったとしても、その影響力自体は、たいしたものだったと思います。まあ、あの方も、インドから中国へ、日本から欧米へと、まあ、忙しい方です。その普及に、ずいぶん熱意を持っておられた方ですからね。 ―― 禅、は精神統一というか、人びとの悟りへの関門、道標的役割を担ってきたということだけではなく、日本独自の芸術、文化の一種の背骨となって発展してきたという功績も見逃せないですね。 栄西 そうそう、そういう意味での芸術、文化への滲透、これは禅、がはたしたひとつの貢献だと、私は思いますよ。 ―― 茶とか、華道とか、造園、それに詩、俳諧にまで、その影響は及んでいると思いますが……。 栄西 そう、そうです。すべて"禅"の影響というものがありますからね。これは日本文化をつくった源と言ってもいいものだと思いますよ。ですから、私たち、私たちと言っては他の人たちに失礼でしょうが、私自身に対して、悟りを得ていなくとも、現在ね、そこそこ、楽しく暮らさせていただく理由のひとつは、まあ、文化的にいろんな影響を与えたということだと思いますよ。 ですからね、私、あなた方の教えもね、ひとつ、文化的にハイレベルなものになるような気質があっていいと思います。もっと何かね、他のものへも波及(はきゅう)するようなものであっていいと思いますよ。音楽とか、絵画とか、文学とかね、私はあなた方の教えを受けて、文学方面などで活躍する方が出ることを期待していますよ。そして、そういう教えを、たとえば絵画で表現(あらわ)す人、あるいは音楽で、あるいは彫刻で、あるいは文学で現わす人、こういう方が出て来るといいなあと思っていますよ。まあ、やがてそういう人も出て来るでしょう。 ―― 私は、そういう意味でもね、私たちの教えというよりか、これは「神理」ですね、神の教えを淵源(みなもと)とするところの、芸術全般はもとより、宗教、哲学、教育、政治、経済、文明、文化、すべての分野、すべての世界についての大変革、「理念」革命の時期が来ていると思いますよ。いわゆるネオ・ルネッサンスが、今世紀から新世紀にかけて、やがて興ってくるのではないかと思います。また、そう信じております。 栄西 そうです。あなた方が掲(かか)げているものは、単なる宗教の宗派や教義だけの問題ではないはずです。新しい文明文化の基礎となる教えとならねばなりません。まあ、頑張って下さい。 ―― では、栄西先生、本日は大変ありがとうございました。「禅」の本義については、先日来、道元、無門禅師方より承りましたが、栄西先生からは、禅、そのもの意義もさることながら、禅の効用というか、禅が精神生活への及ぼす影響、ということを通して、"新文化建設"への示唆をいただきまして、まことにありがとうございました。
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目次 1.現代日本に思う 2.神の不在 3.道徳の欠如 4.師の不在 5.勇気の必要性 6.根本的立て直しの時 1.現代日本に思う 現在の日本において、いちばんの問題と言えるのは、心の中心の部分の不在ということであろうと思います。 国がどのように乱れても、国の中心となる考え方、国の根本となる考え方が固まっている時には、国の乱れはやがて収まっていきます。 これに反して、根本思想、中心の思想が定まっていない時に、混乱が来、国難が来た時に、その国は分解してやがて潰れていくものです。 私は、現代の日本に、そして、現代の日本人に特に問いかけたておきたいこととしては、根本的なるものを持て、心の中軸を持てということであります。心の中軸を持たない人間は、やがてさまざまな試練のなかを乗り越えていくことができなくなっていくでありましょう。 これに反して、心の中軸を持っている人は、その中軸を頼りにして、どのような困難の時にも、どのような嵐の時にも、乗り越えていけるのではないかと思います。 この「克服の原理」ということが、何にもまして大切ではないでしょうか。 結局のところ、自分自身の心、一人ひとりの心のなかに、「確固たる不動心」ができているかどうか、ということであろうと思います。 では、その過去たる不動心は、一体どのようにしてできるのでしょうか。 やはり根本的には、人間の内にはそうした核となるべきものはあるけれども、それに気付くという過程においては、さまざまな方々かの力、環境の力や人びとの力が働いているということを、無視することはできないのだと私は思うのです。 この意味において、「環境づくり」ということが、とてもとても大切なことのように思われるのです。まず、「人的環境」であります。人びとが善良であって、信仰心に溢れている人びとであるならば、そうしたなかで育った子供たちもまた、善良で信仰心溢れた子供たちが育っていくでありましょう。信仰深い人びとの間に生まれた子供は、間違いなく信仰深いのです。心のきれいな人びとの間に生まれた子供は、やがて心がきれいになって育っていくこととなっていきます。 このように、やはり人的環境ということは、とてもとても大事であろうとおもいます。 この人的な環境を、別な側面から捉え直すとするならば、教育環境と言ってもよいかも知れません。 その人間が生まれ育つ過程において、どのようなものを学び取るか、学び得るか。また、その者が学び取る材料として、如何なるものを提供することができるのか。これが問題となるのです。 こうしてみると、現代の日本を見たときに、心の大切さ、人間の生き方の大切さ、また、信仰の大切さを説いたものが非常に少ないということ。こうしたことが言えるのではないでしょうか。 根本原因は、やはり、唯物思想であろうと思います。そうして無神論を名乗ることが、知識人の証明であるかの如き社会風潮でもあろうと思います。 こうした風潮のなかには、マスコミと言われる新聞、テレビ、雑誌、こうしたものどもの害悪が激しいとと言えると思います。こうしたものたちは、一体自分達がどれ程社会に、世の中に、人びとに、そして、現代から後代の人びとに害悪を流しているかということを知らねばなりません。 つまらない風俗雑誌が、あちらにもこちらにも溢れて、そしてそのなかに流れておるのは、この世だけがすべてだという考え、快楽追及の考え、物こそすべてだという考え、これが中心であり、「神」とか「霊」とかいうと一笑に付してしまう、そうした現状があります。 報道という姿勢に関しても、やはりひとつの観点が要る、ひとつの視点が要る。それは、この地上は神の心の反映が実現されるべきところであるという視点です。神理に基づいた視点です。神理から観て、現在の世の中のどこがどう違っているのか、どの部分をどのように伸ばしていけばよいのか。こうした面を見逃して、勝手な憶測や、勝手な価値判断から、いろんな情報を氾濫させている彼らの存在は、非常に問題となります。 こうした風潮に対して、勇気を持って立ち上がる人が数多く出てこなければなりませんし、報道関係の人びとのなかからも、心ある人たちが出現することが大いに期待されるわけです。 2.神の不在 神が沈黙して語らないと思っている愚かな者たちよ。神がいつもお前たちの見るに堪えない行いを放置していると思っている族(やから)たちよ。神は黙ってはいない。神は見過ごしてはいない。神は沈黙してはいない。神はあなた方に常に語っているということを知りなさい。 神の不在の責任は、神そのものにあるのではなくて、その神をどのように感じ、どのようにそれから学び、、どのようにそれを日々の生活に行じていくかという、あなた方一人ひとりに問題があるのだということを知りなさい。神が不在しているのではなく、神を信ずる人間が不在しているのであり、神から学ぼうとする人間が不在しているのである。 あなた方の神とは一体何か。 正月の時に、神社詣りをするだけの神であるのか。それとも、受験の時や、結婚の時の祈願をするだけの神であるのか。もちろん、神のなかには、そのような祝いごとを取り仕切っている者もいる。しかし、それはあくまでも、信仰の本道ではない。信仰の本道にあるのは、この天地を治めている神の経綸です。この神の経綸の下に、人びとは生きていかねばならないこととなっているのです。 さすれば、神の不在を嘆くよりも、神を信じない人間の数多きを嘆きなさい。神の心を心として生きていかない人間の、数多きことを嘆きなさい。それはあなた方人間の責任であるということを知りなさい。 本当の幸福とは、根本的にすべてを知るということ。すべてを知ったなかで、自らを最高度に発揮していくということ、これが素晴らしいことなのです。これが本当の生き方なのです。 ここに、人生の根本があるということを知りなさい。本当の世界を知らず、神の創られた世界を知らずして、生きているということの恥ずかしさを知りなさい。そうした世界のなかで、弱々しく生きている自分たちの愚かさを知りなさい。 神は黙ってはいない。神は手をこまねいて見ているのではない。神は常に熱い視線でもって、あなた方を見ている。あなた方を見守っている。私がこのように送る神示も、また、神が黙っていないことの、神があなた方を放置していないことの証明に他ならないと思う。 私がこのように語るということが、かつてあったであろうかということを知って欲しい。その意味を知って欲しい。 あなた方は今、自分たちが如何に怠惰な生活を送っているかということに、気がつかねばならない。怠惰の理由は、どこにあるのか。怠惰の理由は時代の持つ意味を知らないからではないのか。また、自分が立たされている、この立場の意味を知らないからではないのか。 今、新たなる風が巻き起こっている。大いなる嵐が始まっている。これは日本を立て直すための嵐である。 神の不在を嘆くなかれ、神の不在を嘆いている自分の無力さを嘆け。今、こうした、大いなる風が起きる時、大いなるつむじ風が起きる時、この時に、同時代に居合わせたあなた方よ、わが言葉を学べ。わが言葉を学んだならば、それを行じていけ。それを一人でも多くの人に弘めてゆけ。そこに、本当の生き方がある。人間としての原点がある。神の子としての原点があると思う。 まず、神というものを思い出せ。そうして自らもまた、その神から出ている人間であるということを知れ。 さすれば、「親に似ぬ子は鬼子」というではないか。親に似るように努力せよ。親の心は明るく豊かであり、希望に満ちているのだ。あなた方だけが何ゆえに、それ程悲しい顔をするのか。辛そうな顔をするのか。不幸を背負っているような顔をするのか。そうしたものを吹き払え。一陣の塵の如く、吹き払ってしまえ。大いなる風でもって、薙ぎ払ってしまえ。禊払(みそぎはら)ってしまえ。そこに、あなた方の真実の姿が現われてくるであろう。 3.道徳の欠如 人びとよ、知りなさい。神の心に適(かな)っていない方向での努力は、決して実を結ぶことはないのです。神の心を、邪魔立てするような方向においては、決して本当の意味での成功ということはないのです。 やはり、心において、方向において、思いにおいて、神と共に在(あ)るということが大事なのです。この、神と共に在るということが、より普遍的なかたちとなり、より多くの人々に、わかるようなかたちとして存在するために、道徳というものがあるのです。道徳というのは、信ずるべき対象ではなくて、守るべき規則です。ルールです。人間として、生きていく上での知恵です。この知恵の固まりが、道徳というのです。 日本人よ。あなた方は、かつて自分達が築き上げてきた道徳というものを捨てました。家庭の道徳を捨てました。そうしたものを、封建的なるものとして捨ててしまいました。間違いを生むものとしてすててきました。 捨てたくば、捨てるがよい。ただ、それに代わるものを見出しなさい。古き道徳を捨てたならば、新しき道徳を打ち立てなさい。その時に初めて、捨てたということに意味が出てくるのです。単に捨てただけでは、何にもならぬ。 あなた方は古き道徳を捨てて、一体何を得たのですか。そこに得たものは、アメリカ的な、愚民主義の民主政治ではないのですか。性の退廃ではないのか。家庭の崩壊ではないのですか。また、女性の心の荒廃ではないのですか。こうしたことを、もっともっと深く考えてみなさい。 特に日本女性よ。あなた方は戦前の美徳をどこに失ったか。権利のみを主張して、本当の意味で、信義に適っていない女性たちの如何に増えたことか。男性を複製したような女性が、如何にこの大和の国の地に溢れてきたことか。それは非常に溢れている。嘆かわしいことです。女性のいちばん大切な優雅な心を捨て、女性のいちばん大切な奥ゆかしさを捨て、女性のいちばん大切な内助の功、献身の美徳を捨て、それらを一笑に付し、自由気ままにいきているあなた方よ。深く自らを顧(かえり)みなさい。深く自らを反省しなさい。 本当の女性のありかたというものは、美しき献身の美です。献身の美徳です。献身の美徳です。それが本当の女性の素晴らしさであり、美しさであるのです。 現代日本の女性たちよ。同じく日本の地に在る私が、女性の眼でもってあなた方を見る時に、どうしても言っておかねばならぬこと、それが、この献身の美徳です。 あなた方は他の人びとに対して、一体如何ほど尽くしたことがあったでしょうか。一体どれほど尽くしたことがあったでしょうか。どのように多くの人びとのために、身を挺(てい)したことがあったでしょうか。身を粉にしたことがあったでしょうか。 自らの成果を誇らず、飾らず、そして、密(ひそ)やかに、奥ゆかしく多くの人びとのために生きていく。これが日本女性の美徳です。こうした美徳を捨てた時に、あなた方の堕落がはじまっていったのです。 どうか、そうしたことに流されることなく、そうした外面の美や、上辺(うわべ)の心に騙(だま)されることなく、内心の美を輝かして生きていきなさい。そこに、女性としての道徳の登場の場面が、またあるはずでしょう。 4.師の不在 日本を憂う際に、どうしても忘れてはならなぬことが、もう一つあります。それは、「師の不在」ということです。すなわち、人びとを導く人の不在ということです。 この師の不在ということは、現代において、大変大きな問題となっているのではないでしょうか。師が不在であるということ、人びとを導く人がいないということ、真の指導者がいないということは、その時代にとっては、大変嘆くべきことであります。大変残念なことであります。 時代のなかにおいて、師を見出すということは、非常に困難を極めております。けれども、いつの時代にも、いつの地域にも、必ず師はいたのです。その師を発見できなかったのは、やはり、その時代に生きていた人びとの罪であったのです。間違いであったのです。私は、そのように思います。 人びとよ、現代に師がいないということを嘆くなかれ。現代は師が不在であるということを嘆くなかれ。現代のなかにも、必ず師はいるのです。あなた方の師はいるのです。自らの目にかけた色眼鏡を取り去り、心にかかった靄(もや)を取り去った時に、現代に、また、師がいるということを、大師がいるということを、神近き人がいるということを、あなた方は知るに至るのです。 大師の存在は、やがて、地域を超え、日本という国の枠を超えて、世の人びとの間に広がっていくでありましょう。 師の不在を、単に嘆いてはならない。自らの心の内に求めていきなさい。師を求めていきなさい。自らの内面を掘り下げれば掘り下げる程、そこに、自らが師に近づいていることを知るでしょう。 大師と合うためには、大師と出会うためには、そして、大師の導きを受けるためには、自らもまた、それだけの神性を具(そな)えておらねばならぬ。自らもそれだけの、心の輝きを持っていなければならぬ。 師は弟子を選ぶということを知りなさい。本当の教えというものは、そのなかに必ず厳しい面がある。弟子が師を選んでいるだけではない。師もまた、弟子を選ぶということを知りなさい。弟子としての態度を知りなさい。弟子としての学びの姿勢を忘れるな。学ぶという気持ち、学ぶという姿勢を忘れ去った時に、師は弟子の前から姿を消すであろう。そのような弟子を教育はしないでしょう。 弟子たる者、深く帰依するという姿勢を忘れるな。弟子たる者、師から学ばんとしている姿勢を忘れるな。自分の心のなかに、師への愛慕(あいぼ)、思慕(しぼ)を持っているという姿勢を忘れるな。この姿勢を忘れ、師もまた、自分と対等であるかの如く思い、お互いに教わったり、教えたりする仲だと錯覚するようになった時に、その弟子は、ひとつの間違いを犯したことになるのです。師というものは、帰依という姿を通して、初めてすべてを明らかにするのです。一人の師から、どれだけのものを学びとるかということは、その者に対する信じ方、その者に対する心の姿勢によるのです。師の心の扉は、自らの心の扉が開いただけ、教えを放つのです。自らの心の窓を開け、心の窓を開け。大きく開け。開いた分だけの教えが流れが、愛の流れが、あなた方の心に流れ込んでくるでしょう。 師は不在ではない。師は必ずいる。必ずいるが、必ず教えるとは限らないということです。その人の傍(そば)に、十年いようと、二十年いようと、心の扉が開かねば、本当の意味において、心にかかった霧を晴らさないで見ていたならば、何ら学ぶことはないでしょう。それは、傍近くに存在したというだけであって、その人の心にとってなんらのプラスにもならなかったということです。 信仰というものは、すべてを見出していく道である。すべてを投げ出し、すべてを見出していく道である。 小さな小さな自分の我を捨てよ。自我を捨てよ。計算心を捨てよ。計算心がある時に、師は本当の意味での教えを説くことはない。汝らの心のなかにある打算を捨てよ。 弟子の心のなかに打算がある時、師はすべてを与えることはない。すべてを教えることはない。そうしたこととなっているのです。弟子たちが捨てれば捨てた程、また、新たなものが与えられていくのです。 師の不在を嘆く者よ、師の教えの不足を嘆く者よ、自らの立場を省(かえり)みなさい。汝らは捨てていないのではないのか。汝らは何かの間違いを犯しているのではないのか。汝らは、師に対して、計算心で接しているのではないのか。師に対して、打算心で近づいているのではないのか。何らかの欲心がありて近づいているのではないのか。自らが、よりよく扱われるということのみを求めて、近づいているのではないのか。真実の教えの道というものは、そうしたものではない。本当にすべてを捨てて来なければ、真実の道は開かないということを知りなさい。それだけの厳しさがあるということを知りなさい。 師が不在であると言われる現今であるが、弟子もまた不在であるということを私は嘆くものです。本当の意味での真理を求め、信仰を求める弟子の不足よ。打算のみを求め、自らの利益のみを求めて生きていく人の数の多さよ。こうした人びとが心を改めないでは、本当の意味での信仰というものを打ち立てることはできない。私は、そのように思います。 5.勇気の必要性 勇気なくして、新たな時代が拓けたということはありません。勇気なくして、新時代の精神ができあがったということもありません。勇気はすべてのすべてです。勇気ありてこそ、新たな時代が拓けていくのです。 私はみなさま方に、三つの勇気の大切さを語っておきたいと思います。 第一の勇気は、これは、信仰の勇気です。信ずるということの勇気です。信ずるという行為は、それ自体がひとつの勇気である。行動であるということを知りなさい。 信ずるということは、相手のなかに最高のものを見出す、神の中に完全無欠なるものを見出すという姿です。その姿は、一躍神の世界に跳入するための勇気を必要とするのです。 現代のように実証主義の時代において、勇気を持って生きると言うことは、限りなく大変です。信仰を持っていきるということは、すなわち、勇気を持って生きることと同じなのです。他の人びとが認めないことを、自らが認めて生きるということ。これは何にもまして大事なことであろうと私は思います。 第二の勇気とは何かというと、この世的なる欲望と闘う勇気です。 この世的なる欲望、人間として生きている以上、さまざまな誘惑があります。地位とか、名誉とか、金銭とか、異性であるとか、いろんな欲望があります。ともすれば、そのなかで流されていきます。それが人間の愚かさです。そうした愚かさは、何とかして克服していかねば、神の世界に入ることは許されていないのです。 その愚かさを克服する方法とは、一体何でしょうか。私は、それをやはり、欲望と闘わんとする決心にあると見ます。地上的なものを脱するためには、ぬるま湯から出ていく、風邪をひくかも知れぬという危惧(きぐ)はありながらも、勇ましくぬるま湯から出るという、外に身を投げ出すという行為が必要です。 執着を断つという行為がなければ、本当の意味において、人生は開けてこない。神の目で見た素晴らしい自分はできない。信仰に至ることはできない。心の目を、心の窓を開くことはできないのです。 第三の勇気とは、すなわち、是(これ)、向上の意欲であろうと思います。 人間はともすれば易きにつき、易きいに流れ、怠惰な生活に流れていきます。そうした時に、日々自らを立て直さんとし、日々自ら向上を目指して生きて行くということは、限りなく勇気のいることです。 みなさまを向上させようとするものは少なく、みなさまを堕落させようとするものの数は多い。平凡な生活に流されていく誘因はいくらでもありますが、しかし、平凡な生活のなかから非凡な力を生み出していくためには、数限りない勇気と努力が必要です。常に向上を目指して生きるということ、これがまた、大いなる勇気そのものであるということを、あなた方に知っていただきたいと思います。 三つの勇気について語りましたが、これはすなわち、その時どきにおける大いなる自覚と決心、決意ということでもあります。その時どきに、自らの使命を自覚し直し、決意し直し、そして、決心をするということ。日々に是(これ)、決心であり、日々是、決意であり、日々是、自覚です。そうした自覚がなくて、勇気が生まれるということは、決してないのです。 そこに、自覚を通して、大いなる世界への道が開けてくるのです。神理の門に至る道は非常に険しいのです。坂道となっているのです。そう簡単には、その神理に至る門をくぐることはできないのです。この世的なる執着を捨て、重荷を捨て、ひたすらひたすらその山道を登っていかないでは、神理の道を乗り越えることはできません。その関門到達するためには、勇気という名の鍵が、どうしても必要なのです。 あなた方の多くに言っておきます。数多くの人に言っておきます。勇気なくして、本当の人生は開けない。時折、毎日でもよい、毎週でもよい、毎月でもよいが、自らに勇気があるか、意気地なしになっていないか、卑怯者となっていないか、そうしたことを考え直してもらいたいと思います。 6.根本的立て直しの時 今の日本は、私たち神の目から見て、到底、座視することのできない現状にあると思います。神の国において、神を信じない国民(くにたみ)が溢れているということは、この日本の神々にとって、どれほどの恥辱(ちじょく)であるかということを、あなた方は考えたことがありますか。日本の国を治めている我らから見て、この地上の国民(くにたみ)が神を信じていないということが、どれ程恥ずかしいことであるかということを、あなた方は知っていますか。そうしたことがいつもでも許されると思いますか。 あなた方も私たちの立場に立って、地上というものを見ていただきたいのです。自らの本質が、霊であるということを知らずして、生きている人がどうしてこれ程多いのか。これを見て何と思いますか。恥ずかしいとは思いませんか。情けないと思いませんか。悔しいと思いませんか。 みなさんが神であったならば、この日本の国民(くにたみ)の嘆くべき現状をどう思いますか。あなた方であったら、どうしますか。どうすればよいと思いますか。 神が直接に、みなさま方に怒りをぶつけるといいうことはないでしょう。しかしながら、厳しい姿となって指導することもあるということは、知らねばなりません。みなさんが、私たちの立場に立ったならば、厳しく子供を諭(さと)すように叱(しか)ってみせることがあると思わないでしょうか。 本来であるならば、あなた方の前に姿を現して、あなた方全員に対して、憂国の思いを語りたい。日本の国を、私がどれほど愛し、どれほど憂いているかということを語りたい。この私の、内心の悲痛な思いを、断腸の思いを、知ってもらいたい。 あなた方は、自覚もなく生きているが、その無自覚な民を養っている神がいるということ、これを忘れてはならない。 根本的立て直しの時に際会して、私は、三つの立て直しの柱を打ち立てることとした。 神というものに対する信仰を、大多数の日本人に持たせるということ、これが第一です。神に対する信仰を持たせる。神を信じさせる。国民の九割以上の人が信ずるような世界にしたい。こう強く願っています。 第二は、霊的世界についての確信であります。霊的な世界が確かにあるということを、人間には魂があって、それが肉体という乗り舟に乗って魂修行をしているということを信じさせたい。そうして、その魂修行は、今世のみのものではなく、過去・現在・未来を貫く、三世の魂修行であるということを知っていただきたいのです。三世を貫く魂の修行は、これは人間にとってどうしてももどうしても必要なことなのです。これが神が創った仕組みなのです。 この根本原理を知らずして、生きるということ、生きていくということが、どれほど愚かしいことであるのか、これを知らねばならんのです。 第三の柱は、これは、政治改革であります。 これは、現代の政治のあり方は、如何(いかん)とも認め難い。政(まつりごと)をする人間は、徳高き人でなければならぬ。人びとを導ける人でなければならぬ、人びとの師となるべき人でなければならぬ。単なる知名度であるとか、そうしたものでもって選ばれていく現行の制度は、どうしても許し難い。やはり、優れた、人びとを導ける徳のある器、師となるべき人が。国政を牛耳るということが本来の姿です。津善の姿なのです。 指導者というのは数は少ない。数少ない指導者が、多くの人たちを導いていくということになっている以上、多くの人びとを導いていくためには、どうしても指導者たちは優れた人でなければならないのです。優れた人たちが、指導者として生きていかないで、指導者として選ばれていかないで、どうして日本の国の人びとが素晴らしい人びとになるでしょうか。 徳高くない人たちよ。単なる収益であると、あるいは、マスコミへ名前が売れているとか、そうしたことでもって政治家になっている人たちよ。あなた方は直ちに職を辞しなさい。本当に人びとに心を割って押しえるべきもの、導くべきものを持っている人のみが、政治家として生きて行くことができるのです。
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目次 1.ナザレのイエス 2.十字架の意味 3.大調和 4.ユダについて 5.復活 6.キリストの本質 5.復活 さて、十宇架にて私は死にました。しかし、その死は決して、私の敗北を意味しませんでした。 モーゼのときに、紅海を割ってモーゼを逃がした神が、エリアのときに火の車を与えて、エリアを昇天させた神が、私のときに、その十字架というものを見ておりながら、何も答え給わず、我がゲッセマネの祈りにおいても答え結わず、何らの奇跡も起こし給わなかった。その理由は、その十字架の後に待っていたということです。 すなわち、私の人生の中において、さまざまな教えを説いたことも大事であるけれども、事実として一番大切なことは、私が病気を治したことでもなく、私がめくらの目をあけたことでもなく、私が復活をしたという、この事実であります。 私が復活をしたという事実は、何百人、何千人の人たちの目に見えたのであります。そうした、悲劇的な死に見舞われたからこそ、また、その復活というものが、非常に印象的であったということが言えると思うのです。 私は復活しました。そして、弟子たちの前に現われました。私の復活というものは、もちろん霊的な復活であります。肉体が蘇(よみがえ)ったわけではありません。霊的に復活し、そしてその肉体を、物質化現象として現わしたということです。生前そっくりの姿として現われ、弟子たちに説いて歩いたということです。 この復活があったからこそ、弟子たちは、その後、あれだけ結集し、死をも恐れぬ伝道の使徒となったわけであります。単に私が十字架に架かって、罪人と共に死んだだけであるならば、弟子たちは、散(ち)り散(ぢ)りばらばらになって、そのままで終わったでありましょう。 しかし、彼らが、ただ、散り散りになるだけではなくて、また結集して、聖典として聖書を残し、また全国各地に伝道して回ったということ自体が、これが、我が復活という行為が引き金であったと、このように思います。 パウロという人間もそうです。初期に、私を迫害していたと言われ、私が死して後も、我を信ぜず、我が弟子たちを迫害していた彼が、我が復活の以後、大いなる翻心(ほんしん)を遂げて、そして我が弟子として、全国伝道に、ローマ伝道に、ギリシャ伝道にと、活躍することになりました。 そうした、大いなる転回、百八十度の転回ということも、私が予定していたことなのです。この大きな意味のために、あえて私は十字架という苦難に、目をつぶったわけです。 今また、この復活が、別の形において行なわれんとしております。それは、高橋信次という人間の、肉体を去った人間の復活であります。現在、『霊言集』というものを用いて、彼は復活せんとしております。この復活を認める人が、やがて、全国に燎原(りょうげん)の火のごとく、広がっていくでありましょう。 これは大きな奇跡であるのです。そして、復活を通して、かつての弟子たちが、大いなる力を糾合(きゅうごう)していくということが、歴史的な事実となって、やがて大きなドラマとして、後の世に語り継がれていくのです。 その途中において、さまざまな苦難はあるでしょう。しかし、それに怯(ひる)んではいけない。これは、イエスの復活、私自身の復活と、なぞらえられることのできる、人類史上の、やがて、物語となっていくのです。その途中において、どのような苦しみがあっても、悲しみがあっても、苦難があっても、あなた方は怯んではいけない。負けてはいけない、それは、復活すべくして復活しておるのだ。 私が十字架に架かって、単に死したのみでもっては、現在のキリスト教はないと思いなさい。現在のキリスト教があったのは、我が復活があったからです。 高橋信次という人の、現在の復活も、運動も、やがてその意味が、わかってくるであろう。百年、五百年、千年たったときに、何のための復活であったかといでことが、やがてわかってくるであろう。そのドラマの途中においては、いろんな悲劇も悲しみもあるかもしれないけれども、それがやがて、大いなる統合へと、大いなる発展へと、大いなる奇跡へと、連なっていくのです。こは、間違いのない事実です。 時に、そのような復活という奇跡もあるということです。病人を治すという奇跡もあるかもしれない。盲(めくら)を目明(めあ)きにするという奇跡もあるかもしれない。 しかし、そうした奇跡は、あそこにも、ここにもある奇跡です。巷(ちまた)の神々、さまざまな霊能者たちがやっておることであります。それを現代において、もう一度繰り返すことは、かならずしも善ではないのです。 大切なことは、そうした復活ということを通して、地上に、かつて肉体を持った人間が、魂として、霊天上界に還って、法を説くという事実です。この事実の重みです。これが、大切なのです。 私は復活した後(のち)、人びとの前に姿を現わし、人びとの信仰を強めさせることはしたけれども、彼らに法を説くということはしませんでした。 今、この高橋信次という方は、復活を機縁(きえん)として、まだ天上界にあって、生きているがごとく、法を説き続けんとしているのです。こうした奇跡は、かつてなかったことであります。 マホメットにアラーの啓示(けいじ)が臨んだことがあった。モーゼにヤーヴェの声が臨んだことはあった。しかし、地上に肉体を持った人間が、天上界に還って法を説き続けたということは、かつてないことであります。天にあるという霊が、霊示を送ったということはある。しかし、地上にあった人間が天に還って、霊示を、霊訓を、そして法を説き続けたということは、かつてなかったとであります。 こうした、かつてなかった奇跡を、今、演ぜんとしているということを、この意味を知らねばならん。これが、新しい復活、新復活の本当の意味であります、これは私のときの復活と、まさしく同じく、軌(き)を一(いつ)にしておるわけであります。 6.キリストの本質 さて、さまざまに話をしてきましたが、最後に、キリストとは一体何なのか、これについて話をしておきたいと思う。 私は、イエス・キリストと呼ばれている。地上にあったときの名は、イマニエル。キリストというのは、救世主という意味です。後世において、そう呼ばれた。そして、我もまた、地上にあったときに、「我はそれなり、我はキリストなり、我は救世主なり」ということを、明確にうたいました。 このことにより、私は迫害の引き金を引いたかもしれません。ただ、これを私が言わなければ、私の名前は、現代にまで伝わってこなかったことも、事実であろうと思います。 「我は救世主なり」と宣言をしたのは、私が最初であったと思います。明らかに、高らかに、我は救世主なり」と宣言したわけです。「我は予言書の中に出てくるメシアなり」。こういうことを、私は言いました。「予言が成就(じょうじゅ)されんがために」、こういうことを言ったわけであります。 さて、こうした救世主というのは、決して一人ではない。いつの時代にも、そうした救世主はいる。 その大小は問わない。その影響力の大小は問わない。しかし、救世主というのは、いつの時代にもいる。 仏陀というのも、救世主であったであろう。あるいは、モーゼもそうであったろう。あるいは、アブラハムという人も、救世主であったかもしれぬ。救世主というのは、世を救うために出てきた、偉大なる人物という意味です。マホメットも救世主と言えたかもしれぬ。 まあ、このように、いろいろあるが、たんなる思想家でもっては、救世主とは言わないわけであります。救世主が救世主である理由は、キリストがキリストである理由は、人びとに世界の本質を教え、人間の本質を教え、真に人間を、この物質世界の生き方から目覚めさせ、精神的なる生き方へと、転換させてこそ、初めて救世主と言えるのです。 本来の人間のあり方と、魂の真実を、これを教えないで、救世主ということはあり得ない。単なる思想家や、単なる行動の人であってはあり得ない。あなた方にとって霊であるということ、霊的な本質と、霊的世界を説くことは、この地上においてはかなリ困難かもしれない。 しかし、易きに流れてはいけない。この地上にある物質を物質として説明し、この世界を世界として説明して、そが一体何になろうか。そんなことは、誰でもできることである。 あなた方にとって大事なことは、目に見えぬ世界を説明し、目に見えぬ神を信仰させるということです。そして、自らも、目に見えぬ神を信じ、目に見えぬ世界のために生きるということです。 これが、大いに価値のあることなのです。これ以上に価値のあることはないのです。 目の前にある物体を、物体として認めることに、一体何の意味がありますか。何の価値がありますか。目の前に人がいるのを見て、人がいると言って、何の意味がありますか。目の前に先生がいて、先生であると言うことに、何の意味がありますか。 目に見えぬ神を、あると信じて、この世界をよきものとして、神の創られた世界として信ずることができるからこそ、そこに大いる魂の飛躍があるのではないのですか。そこに大いなる魂の飛翔(ひしょう)があるのではないのですか。そこに大いなる魂の向上があるのではないですか、 私は決して、物質がいけないとか、お金がいけないとか、異性がいけないとか、地位や名誉がいけないとか、そういうことは言わない。それもこの世には、あることはあるであろう。必要かこてこがあ石であろう。 ただ、それに執(とら)われるということは、真実の世界に対する目を曇(くも)らせることになるということを言っておるのです。真実の世界の存在を知れ。霊の存在を知れ。神の存在を知れ。神の創られた世界であることを知れ。それを知ることが、大いなる勇気の源泉となり、大いなる知力の源泉となるということを知れ。 キリストの本質は、いつの時代も、こうした本当の世界観を人びとに教えるということ。 そして人びとを立ち上がらせるということ。真の意味において、人びとを救うということ。そして、その仕事が、同時代だけに評価されるのではなくて、後(のち)のちの数千年の人びとをも救うことになるということ。こうしたことがキリストの本質であるわけです。救世主の本質であるわけです。 さすれば、あなた方も、自分の心に、自らの心に問え、自分たちの仕事が一体何であるかを。この世の常識に迎合するをもってよしとするな。この世の知識人に歓迎されるをもってよしとするな。 真実の世界を、真実のままに伝えるということ。この世の人びとの常識が違っておるなら、断じてそれを認めてはいけない。真実の世界に生きなさい。真実のままに生きなさい。自分たちが正しいと思うがままの生き方をしなさい。 世の波風に、負けてはならん。人の悪口や雑言(ぞうごん)、あるいは批判や非難、こんなものに負けてはならん。彼らは知らんのです。神理を知らんのです。さすれば、神理を教えてあげるだけです。神理を広げていくだけです。 これから後、さまざまな困難もあるかもしれぬ。ただ、負けてはならん。あなた方は神の代理人であり、神のために働いておるのだということを忘れてはならん。 そうであるならば、力強く、力強く、進軍ラッパを吹いてゆけ、行進してゆけ、敵弾が当たるとも、生命は不滅である。不死であり、不増(ふぞう)、不滅(ふげん)である。 そういう氷遠の生命を生きておるならば、この地上の、自分の保身ということを考えずに、永遠の生命を、神のために燃焼し尽くすという生き方こそが、本当の生き方であります。 どうか、そういう生き方を大切にして、今後の人生を切り開いていってください。
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目次 1.出口王仁三郎の大降臨は、一回きりしかない 2.宗教の使命は、総じてこの世のお立て直し 3.宗教の使命の第一番目は、人間存在の意義の教え 4.宗教の使命の第二番目は、新たな世界観を与えること 5.宗教の使命の第三番目は、生かし合う幸福感を与えること 6.宗教の使命の第四番目は、魂の過去、現在、未来を示す教え 7.イエスの教え、左の頬(ほお)も出せとはどんな意味か 8.右の頬を殴られてハッと感じる人間修行の各段階人 9.出口王仁三郎の心境は、上(じょう)の中(ちゅう)ぐらい 10.イエス様の心境は、馬鹿も徹底した 神 の姿 11.神仏は、すべてを許されている慈悲深いお方 12.お立て直しのときがきた 13.お立て直しの第一番目は、あの世があることを知らすこと 14.お立て直しの第二番目は、価値基準を教えること 15.お立て直しの第三番目は、ユートピア建設に身命を賭して努めること (1987年2月26日の霊示) 1.出口王仁三郎の大降臨は、一回きりしかない 出口です。まあ、いろいろと、言うてきたけれども、どうやらわしの本も、でき上がりじゃのう。第8章、今日は、「お立て直し」というところまで、どうやらこうやら、やっと、漕ぎつけてきた。 戦前、戦中、大本数で、一番わしがやりたかったことは何かと言えば、まあ、はっきり言えば、お立て直しじゃ。この世のお立て直し、これがわしの理想じゃった。まあ、そのために、大本ならぬ根本から、ごっそりやられてしもうた。そういう残念なことがあったわけじゃ。 まあ、じゃから、この世の勢力というのも、けっこう無視はできん。この世には、この世の、やはり法則もあれば、この世の人間の考えもあるし、この世の人間の妨害もあるし、また、協力もあるし、いろんなことがあるから、なかなか、あの世で思うたとおりにはいかん。わしも、地上に生まれる前には、このお立て直しということを中心に、やはり日本の大改革を、やろうと思って出て来たんじゃ。じゃけれども、大本の神様と天皇陛下の神様とは、どうも合わんかった。おかけでまあ、こういうふうな仕儀(しぎ)になったわけじゃ。まあ、それで今日は、このお立て直しの意味を話した上で、お前さん方へのアドバイスをいくつかして、そしてきれいさっぱり、あの世で成仏しようと思っとるんじゃ。 わしは、未練がましゅうないからのう。一冊しゃべったら、もう終わりじゃ。もう二度と、王仁三郎の声は聴こえんぞー。どんなに大本の信者とか、どんなに日本の熱心な読者が、王仁三郎さんもう一回出てくれ、なんて言ったって、わしゃあ、聴かんぞ。そう何回も出たんじゃあ、格が下がるからのう。王仁三郎は、後にも先にも一回きりじゃ。一回大降臨すれば、もう終わりじゃ。そういうことでのう、名残り惜しいけれども、もう出んぞー。出んと思うて、皆んな、しっかり聴かにゃあいかん。 2.宗教の使命は、総じてこの世のお立て直し まあ、宗教の使命というのは何かと言えばのう、結局、宗教というのは、この世ならざるものをこの世に持ってくるんだから、そういう意味では、まあ、この世のお立て直しということは、宗教ということ自体のなかに、もうすでにあるということじゃのう。宗教ということ自体のなかにあるんじゃ。お立て直しということはのう、すでにある。そこでじゃ、最初に、簡単に、まあ、大先生みたいに、大法螺(おおぼら)吹いては申しわけないけれども、宗教の使命ということで、いくつか話をしておこうと思うんじゃ。宗教の使命というものを、そうじゃのう、わしは、五つぐらいに大きく分けられるんじゃないかと思うとる。 3.宗教の使命の第一番目は、人間存在の意義の教え 宗教の使命の、一番目は何かと言うと、これはのう、まず人間に、自分たちの存在とは何かということを教える。こういう役割じゃのう。むずかしく言えば、哲学は哲学じゃ。ものごとの追究、探究をしないで、何となくその日暮ししとれる人間は、それでいい。太陽が、なぜ東から上がって、西に沈むか、全然気にならん人もおる。 何で昼と夜があるか、気にならんでも、一生は終われるんじゃ。こういやあ、笑ってしまう人もおるじゃろうが、日本のうちの半分以上は、そうじゃぞー。理科か何かで習った以外は、太陽がどうして昇るじゃの、昼と夜がどうしてあるんじゃの、何も考えんと過ごしとるのじゃ。 何で春夏秋冬があるか、何も考えとらん。何で星が瞬(またた)いておるのか、何で月があるのか、どうして海があるのか、山があるのか、谷があるのか、川があるのか、のう、樹木は緑なのか、なぜあれが緑なのか。茶色でのうて、葉っぱが緑なのか、まあ、いろいろあろう。なぜ海が青いのか、いろんな神秘がある。こうした人間の身の回りのことを、不思議に思う目を持っとるのなら、そもそも人間とは何じゃということにさえ、やはり目がいかんようじゃ、困るわけじゃ。 まあしかし、学校の先生でも今、人間とは何じゃと、教えられる人はおらんのじゃ。のう、これが問題なわけじゃ。教えられる人がおらん、大学の先生でも、教えられん。ああ、人間は考えられる動物じゃ、と言ったところで、そんなものでは、定義になっておらんのじゃ。動物は考えておるか、どうなのかは、わからんもんのう。動物に聞いてみにぁ、聞いてみても返事が戻ってこん。ワンワンとか、キャンキャンとか言いよるから、結局、わからんわけじゃ。お前、考えとるかちゅうても、ワンワンとか、モウモウとか言うとるから、わからんわけじゃ。 そういうことで、動物が考えているかどうかは、わからん。じゃあ、人間は人間として、自分は一体何者じゃということを考えにゃいかん。つまり、人間存在についての、まあ、追究じゃのう。これをやらざるを得ん。この解答を与えてくれるのが、ひとつは宗教じゃ。じゃが、宗教のなかには摩訶(まか)不思議なものが多うて、なかなかすんなりとはいかん。学問のように答えてくれん。学問のほうでは、何万何十万年前に直立猿人が出たじゃの、何じゃのかんじゃの言うてのう、原人じゃの言うて、人間がおったじゃとか言うて、骨を発掘したりして調べておるけれども、まあ、宗教のほうでは、未だに、わからんのじゃ。 たとえば、キリスト教が、二千年前から、進歩しておるかどうかじゃ。これは、進歩しておると言える人はおらんじゃろう、おそらく。やはり、イエスの時代が最高であって、あとは下がってきたんではないのか。下ってきて、何度も何度も、垢(あか)落としをしたり、立て直しをしたりしたのが、キリスト教じゃないかのう。今のクリスチャンで、「私は、イエス様のことを説いとります」と言える人がおるかおらんかじゃ。学問の世界で、二千年も経ったら、こんなことはあり得んこっちゃのう。今、十年経ったら、十年前の学者の説など、もう一笑(いっしょう)に付せられとる。 ところが、宗教の世界では、そうはいかん。二千年前の人、偉い人は偉い人であって、イエスがどう思ったかということを、未だに連綿と、皆んなが研究しとるわけじゃ。 まあ、ブッダでも、そうじゃのう。二千五、六百年前の、ブッダの思想、これより高い思想を、今の仏教家が持っておるかどうかじゃ。お寺の坊さんに、マイクつきつけて、聞いてみい。どうじゃ、お前はお釈迦様よりも悟っておるか。お釈迦様以上の説法ができるか。してみい、と言うたら、まあ、百人が九十九・九人、逃げ出すわ。そりゃ、無理だと言う。まあ、仏教は二千五百年進んどらんのじゃ、結局。堕落していっては、まあ、その垢落としばかりをしておるというのが、筋(すじ)じゃのう。 こうして見ると、人間とは何かという存在を、宗教は教えるわけじゃけれども、この宗教の難点というのは、こういうふうに時代が進んだからといって、進まんということじゃ。時代とは別々に、それぞれの、高いところがあってのう。偉い人が出たら、それが頂になって、それから下ってくるというのが宗教じゃ。そして、宗教のなかでも偉人というのは、ほんと、何百年、何千年経っても、そそり立っておるのじゃのう。 鎌倉時代には日蓮おり、親鸞おり、道元おり、栄西おり、ということじゃったけれども、それ以後に、そうした先生方以上の人が出とるかっちゅうと、疑問なわけじゃ。まあ、こうして見ると、宗教家というのは、どれも一代限りじゃということが、ようわかる。一代限りで、ボーンと突き出て、あと、下ってくる。下ってきたときに、また、ボーンと出る。そういうこっちゃのう。 まあ、○○学会も何千万と人がおる。けれども、それは、その信徒の数は、日蓮さんが教えたときよりは多かろうが、じゃあ、○○学会の指導者が日蓮さん以上かと言えば、まあ、そういうことはないじゃろうし、はた目にも、そう認めんじゃろうし、自分たちでも認めんじゃろう。自分たちでも、日蓮さん以上に教えられるとは思うとらんじゃろう。やはり先生以上には、ゆけんのじゃ。八百年経っても、ゆけんのじゃ。ゆけんもんはゆけんのじゃ。まあ、こうしたもんじゃ。 じゃから、宗教とは、人間の本質とかのう、存在論について教えてくれるもんじゃけれども、そういう師以上のことを知ることができんという欠陥があるんじゃ。まあ、そういうことで、偉大な、何と言うかのう、指導者が生まれたときに生まれ合わした人は、幸せじゃ。じゃが、時代を、これひとつ逃がすと、そういう人にはもう会えん。これは悲しいことじゃのう。まあ、仏教徒が何回生まれ変わってきたところで、釈尊がおるとき以外に出たんでは、結局、それ以上のことは聴けんわけじゃ。 今の坊さんで、釈迦以上のことを言える人はひとりもおらんじゃろう。まあ、間違いない。今のクリスチャンで、イエス様以上のことを言える人もひとりもおらんじゃろう。これも、間違いない。今のマホメット教徒で、マホメッ卜以上のことを言える人もひとりもおらんじゃろう。これも、間違いない。まあ、こういうことで、宗教ということを教えるものじゃけれども、まあ、限界として、不確かさがあるし、時代的制約がある。そうした偉人が出て来たとき以外にはわからんという、制約があるちゅうことじゃのう。 4.宗教の使命の第二番目は、新たな世界観を与えること まあ、今のこととも関連するけれども、宗教の使命の第二番目というものは、新たな世界観を人間たちに与えるということじゃ。新たな世界観というのは何かと言うとのう、先程、人間の本質ということを言うたけれども、これは、わしらが住んでおる世界の様相じゃのう。これをどうやって伝えるかっちゅうことじゃ。まあ、そうじゃのう、ちょうどこの世におる人間が、あの世の世界のことを教えるちゅうのは、まあ、池に映った雲を指してのう、あれが雲じゃ、あれが空じゃ、と言うとるのと一緒なんじゃ。これだけむずかしいんじゃ。 ほんとうに雲じゃの、空じゃのを見える人がおれば、あれが空じゃ、雲じゃと思うんじゃが、まあ比喩(ひゆ)的に言えばのう、この世の人間というのは、空を見上げることはできんのじゃ。空っちゅうのは、天国じゃのう。天上界と言うてもええ、これを見ることはできんのじゃ。みな俯(うつむ)いとるんじゃのう、まあいねば、地面しか見とらん。ちゅうことは、物質ということしか見ておらん、ちゅうことじゃ。そして、下しか見えんということになる。 そのなかに、上を見れる人がひとりぐらい、おるんじゃのう、宗教家には。そして、空とか雲とかを知っとるわけじゃ。それで、地上人に、お前たちは土ばかり見ておるが、ほんとうは上のほうには空とか雲とかがあるんじゃと、教えとるんじゃが、まあ、聴いた人はわからんわけじゃのう、下しか見えんのじゃ。だから、そんなもの信じられんと言うとる。 それでは、わしについて来いと言うんで、とことこついて行って、行けば、池か何かに連れて来てのう、これ見てみろと、下の池見たら、水面に、雲じゃの、空じゃのが映っとるわけじゃ。あれが雲じゃ、あれが空じゃというわけじゃけれども、まあ、それを見て、ああなるほど、これは他の面が反射しとるのじゃから、上にこんなもんもあるに違いないと、認める人もおる。こういう人も、何十パーセントかおる。しかし、そんなものは、まやかしじゃ、と。あれは、水中に何かしかけがあって、あんなもの幻燈(げんとう)みたいに映しとるに違いないと、まあ、こう言うてるものもおるんじゃ。こういうむずかしさじゃのう。 池の面を見せながら、あの世を語っているようなもんじゃ、こういうむずかしさがある。これは、大指導霊が出ても、皆一緒じゃ。それを見せるわけにはいかんのじゃ。どうしてものう。じゃから、まあ、できるだけ正しい世界観、とまで言えんから、この世ならざる世界観を教えることじゃのう。そして、他を指して、これが雲じゃ、空じゃと、教えるのが宗教家の使命じゃ。ただ、全容を確信させることは、なかなかできん。 5.宗教の使命の第三番目は、生かし合う幸福感を与えること 宗教の使命の三番目はのう、人間を幸せにするこっちゃ。まあ、皆んな、小学校や、あるいは、中学校から、いろんなことを教わっておるんじゃが、今日では、すたれてしもうたけれども、道徳というのがあってのう。友だちとは仲ようせねばいかん。友情が大事じゃ。親子の愛情が大事じゃ。そういうことを、いろいろ教わる。あるいは、親切ということはよいことじゃ、奉仕ということはええことじゃ、と教わる。じゃが、こうしたことはのう、なかなか教わらんとわからんのじゃ。 人間、やはり放し飼いにしとるとのう、野蛮人みたいになってしまうんじゃ。そりゃのう、ジャングルか何かに育ったら、わからんぞ。まあ、ジャングルか何かに育ってのう、二十年経って、そこへ探検隊の人でも出て来てみろ。そりゃ、人間を見たら、化けものじゃと思うて逃げるか、害を加えるか、どっちかじゃ。愛し合うということは、まずわからん。恐怖心しかない。恐怖心と、自分を守るということじゃのう。したがって、何も教育せんと放っとけば、要するに、人間というのは、自分を守るという気持ちと他に対する恐怖心、これを持って生きるようになってしまうのじゃ。 今、お前さん方、道を歩いておっても、恐怖心は感じんじゃろう。まあ、車がくれば恐怖心を感じるが、まあ、通常、道を歩いておって、何かをされることはないわけじゃ。ところが、本能のままに人間がのう、勝手勝手に生きておったら、たとえば、買いものひとつできんのじゃ。買いものして、肉でもネギでもええが、それを買いものかごに入れて下げとるのを通りがかった人が見て、こんないいものがあると思えば、サァーっと持って行くのじゃ。 そりゃあ、当然じゃ。これは教わっておらんからじゃ。盗んだらいかんということを教われば、それはいかんと思うけれども、知らんかったら、肉がほしいと思えば、それを取って逃げる。卵がほしいと思えば、取って食べる。当然のこっちゃのう。で、憎い人間がおれば、殺してしまう。まあ、憎けりゃ殺すのは当然と思うておるのう、こういうところがあるわけじゃのう。 じゃから、まあ、道徳じゃとか、いろんな学問じゃとか、まあ、家庭教育じゃとか、いろいろ、あるけれども、そうしたものは、人間を何と言うかのう、助け合う存在として、生かしめようとする。この根源は何かと言うと、結局、宗教にあるわけじゃのう。宗教ちゅうのは何かちゅうと、要するに、神仏、まあ、神仏と言っちゃあ、あれじゃけれども、神仏に近い、高級霊から受けた、啓示じゃのう。 こういうのを元に、いろんなものがつくられたわけじゃのう、教えが。じゃから、わしの本を読む読者も、まあ、同時代じゃから、王仁三郎がしゃべっておるわと思うて、のほほんと生きて、読み飛ばしとるじゃろうが、これが五百年、千年経てば、王仁三郎の霊示集などというと、これは大変なことじゃ。本に赤鉛筆の線を引くのさえ、畏(おそ)れ多いことじゃ。祟(たた)りがあるんじゃないかと思われるぐらいじゃのう。 そういうことで、五百年もすりゃあ、これが、皆に暗誦(あんしょう)されたりするんじゃろうとわしは思うんじゃ。同時代にはわからんじゃろうが、根源はやはり、あの世の霊たちなんじゃのう。じゃから、あの世のほうが、よくものごとがわかるから、それで教えるということじゃのう。そういうことで、宗教の、まあ三番目の使命ちゅうのは、そういうあの世の知識を元にして、この世の人間に、生きるべきすべをのう、人間としての正しい人生観、まあ、愛と慈悲と言うてもええ、助け合いと言うてもいい、まあ、そういう生き方を教える。これが三番目じゃ。 6.宗教の使命の第四番目は、魂の過去、現在、未来を示す教え 四番目に、宗教の使命というのをあげるとするなら、まあ、一番目の人間とは何かということにも関係するんじゃけれど、人間は何かと言うんで、まあ、神仏の子と言うてもええ。人間が永遠の転生輪廻をやっとる、生きものじゃと思ってもいいし、まあ、そういう定義がいろいろあるのう。じゃが、四番目で、宗教の使命と言うと、そうじゃのう、まあ、これは一番目とも非常に関係しとるんじゃけれども、魂の事実、歴史についての解明じゃのう。 一番目のが、人間が霊的存在だということに気がつくことだと言えば、四番目ちゅうのは、霊的存在ちゅうことで、止まらずにのう、魂ちゅうのは一体どんな性質を持っていて、どんなふうに生きてきとるのか、そして、どういうふうに今後いくのか、まあ、こういう魂の行方じゃのう。来し方、行く末、性質、まあ、そういうことじゃ。あるいは、これを魂と言わずに、心と言うてもええ、もっと一般的に。人間の心についての、神秘を語るのが、宗教であろう。 まあ、そんなことは宗教でやらないでも、心理学でやるじゃろう、と言う人もおるじゃろう。じゃが、心理学では、やはりわかっておらん。心理学は、まあ、いろんなのがあるわのう、モルモット相手に、条件反射ばっかり調べておる心理学もあれば、あるいは、犯罪人ばっかり相手に、犯罪心理学やっているような者もおる。じゃが、心理学の一番いかんのは、要するに、まともな人間相手の心理学がないこっちゃのう。異常心理学ばかりやっとるわけじゃ。気狂いさんじゃの、変な、何ちゅうかのう、犯罪人じゃの、そんな心理学ばかりやっとる。 あとは動物じゃのう。動物の心理ばかりやっとる。モルモットはメスのモルモットのところに近寄るのと、餌を食べるのと、どっちが好きかとのう。こんなことを、一生懸命調べとるんじゃ。そして、やっぱり餌のほうが好きらしい、と思うとるのかのう。こんなことを調べたりして、だから、人間もそうなんじゃろうとか、こういうことをやっとる。 まあ、これはちょっと方法が違うんじゃのう。結論に基づいて、何ちゅうかのう、ものごとを考えるとんじゃ。そういう動物、モルモットじゃの、人間じゃの、これは、結果なんじゃのう、想像の結果なんじゃ。結果に基づいて、あれこれ言うとるけれども、結果を見たんじゃ、いかんのじゃ。原因を見にゃあ、いかんのじゃ。どういうふうにつくられたのかが、そもそも問題なわけじゃのう。じゃから、心理学で、ほんとうの意味での心はわからん。 霊の世界がないと言っているうちは、まあ、こういうのは、偽者じゃのう。こういう心理学者は、そうじゃのう、皆んなに詫びてもらわにゃいかんのう。お金もらっちゃあ、いかんわ。さらに言えば、その、心の秘密じゃのう。これをいろいろと説き明かしていかにゃあいかん。心ちゅうのは、ひとつには、善悪の問題があるけれどものう、善悪の思い、善の思いと悪の思い、というのが心の面、魂の面で、一体どういう役割をはたしておるかじゃ。この傾き、これを学ばにゃあいかん。じゃ、悪いことを思えば、それがどうなるのかちゅうことじゃ。いいこと思えば、どうなるのか、これを勉強させるのが宗教じゃのう。これは地上の学問では、まあ、ちょっと無理じゃ。 7.イエスの教え、左の頬(ほお)も出せとはどんな意味か これはのう、地上の学問ちゅうのは、まあ、言うてみりゃあ、イエス様が言うとる、右の頬っぺた殴られたら左の頬っぺたを出せなんて言われたら、ナンセンス、まあ、こうじゃのう。上着取られたら、下着も差し出せ、なぞと言うとるのも、こんなの見たら、まあ、法律学者が見れば、こんなのナンセンスじゃろう。こんなんでは、犯罪人が増える一方で、全然取り締りができん。やはり、上着を取られたら、早う取り返さなきゃいかん。取り返せなかったら、賠償(ばいしょう)を請求せねばいかん。これがほんとうのあり方で、下着まで与えるなど、そんな馬鹿なことあり得ないと、まあ、こういうことじゃのう。 そういうことで、イエスの姿は、慈悲魔としてしか映らんじゃろう。ところが、イエスは、心の世界を知っとったわけじゃのう。心の世界を知っとったわけじゃ。心の世界というのを知ってしまうと、彼が言うとる意味がようわかるんじゃ。たとえば、右の頬っぺた殴られたから、じゃあ、相手の右の頬っぺた殴り返したら、これはどうなるかじゃのう。この世的には、五分五分じゃ。殴られたから殴り返したんで、まあ、帳消しじゃのう。これで気がすんだから、まあ、これで止めようじゃないか、と。しかし、あとで殴られた人が痛いぐらいじゃとのう。前に殴られた人が、もう痛みがやわらいでおるけれども、あとで殴られた人が痛かったと、まあ、こういう不平不満はあるかも知らん。じゃが、この世的には、右を殴られたら、右を殴り返しゃ、終わりじゃ。 8.右の頬を殴られてハッと感じる人間修行の各段階人 じゃが、心の世界では、そうはいかん。右の頬っぺたを殴られても、要するに、いろいろ段階があるわけじゃのう。その殴られたあと、カーッときて殴り返す。まあ、これは最低じゃのう。これは動物と一緒じゃ。 あるいは、殴られたら泣き出す、まあ、こういうのもあるわのう。あるいは、殴られたら逃げ出す、というのがあるじゃろう。まあ、この辺は、ほとんど動物と一緒じゃのう。変わらぬ、全然。あえて人間として生まれただけの、価値がないちゅうわけじゃ。殴られたら殴り返す、殴られたら泣く、殴られたら逃げる。まあ、これでは、人間として、心の修行をしとる意味がないちゅうわけじゃ、全然のう。 じゃあ、どの辺が修行かと言うとのう、殴られてカーッと腹が立つけれど、まあ、一生懸命自制するちゅうタイプがある。まあこれは、今の三つよりは、ちょっとましじゃ。殴られたけど、自制する。ジェントルマンがそうじゃのう。ステッキついて、金ぶちのメガネかけて、シルクハットだか何だか知らんのをかぶって、エンビ服着て歩いとるとき、殴られたからといって殴り返しとったら、そりゃあ、暴力団みたいになる。じゃから、紳士は、頬っぺたが赤くなっても、ジィーっとがまんして、この野郎と思いながら、今にみてろ、警察を呼んでやる、なんてね、まあ、思うくらいじゃろう。こういうグーッとがまんするという段階は、まあ、前の三つよりはちょっとましじゃけれども、まだ、今ひとつじゃのう。 次の段階は何かちゅうと、殴られて、それで、それに対して、何ちゅうかのう、自分を守るか、相手を害するかというんじゃなくて、相手を見る人じゃの、次は。なぜこの人はわしを殴ったんじゃろうか、とこう見る人が次におるんじゃ。そして、いろいろ考えてみると、確かにこれは、わしが眼付(がんつ)けしたのが悪かったんかも知らん、確かに、あいつの眼線(めせん)を切ったかもわからん。やくざさんなら、そりゃ怒ったじゃろう。こりゃあ、失礼した。やくざにはやくざの世界の生き方がある。眼付けをしたのはわしの間違いじゃった、と。こういうようなことを考える人も、おる。 あるいは、相手はよっぽど腹の虫の居どころが悪かったに違いない。もしかしたら、朝めしを食うとらんかもわからん。あるいは、借金して、サラ金か何かにやられて、もう頭がいっぱいなのかもわからん。あるいは、家族のなかに自殺者が出て、夜寝とらんのかも知らん。ムシャクシャしとるんかもわからん。あるいは、新品の服着とったけれども、曲がり角で車に泥んこを跳ねられて、頭にきとるんかもわからん。まあ、相手の人にもいろいろ事情があるやろう。よっぽど虫の居どころが悪かったのかも知らん、と。 まあ、こういうふうに自分の内を見、相手の内を斟酌(しんしゃく)するという段階は、まあ、もうひとつ上じゃ。先程のちょっとがまんするというよりものう。腹立ったけどがまんするというより、もう一歩上じゃ。相手の内と自分の内を見る。まあ、ここまでくれば、そうだのう、中等より上じゃ。もう、中の上はきとるわ、人間として見てのう。 まあ、読者の皆さんも、同じことやられて、どう思うか、自分がどう反応するか、まあ、考えてみることじゃ。殴り返すか、泣くか、逃げるか、怒るけど我慢するか。それとも、相手の立場を考えて、自分に非がないかどうか振り返るか。どれに値するかどうか、よう考えてみい。最後までくれば、まあ、中の上じゃと思うてもよい。上等とまではいかんが、中の上ぐらいじゃのう。松、竹、梅の竹ぐらいまではいっとるわけじゃ。じゃがまだ、これよりもっと上の人がおるのう。 まあ、今までの人は、そうじゃのう、最後の人は、心の段階が高こうて、相手を見るだけの余裕があるけれども、もっと大きな人が出てくるんじゃのう。つまり、そうじゃのう、愛の塊と言うてもいい。慈悲の塊とも言うてもよい。縁があって、人生の途上で、自分と出会う人を、何とかしてよくしてやりたいと、思うてる人じゃのう。こういう人がある。まあ、生来の教育家じゃのう。何とかして相手を向上させたいと思うておる人がある。まあ、こういう人なら、怒るでもなく、泣くでもなく、相手を、人につかみかかって殴るような人を、どうすればもっと立派な人にできるか、いろいろと斟酌(しんしゃく)するじゃろう。 そして、相手を見て、これは注意をしたほうがいいと思えば注意をするし、たしなめたほうがいいと思えばたしなめるし、黙っておいてやったほうがいいと思えば黙っておる。あるいは、場所を変えて話をする、というような人もおる。まあ、相手をよくしてやろうと思うタイプじゃのう。先程の、一日に何かあったかもわからんと思ったり、自分に非があったかもわからんと思ったりする人と、相手をもっと向上させようと思っとる人となると、まあ、これでまた、心の段階がちょっと違うんじゃのう。この辺までくると、まあ、そうじゃのう、上の下はきとるじゃろう。 9.出口王仁三郎の心境は、上(じょう)の中(ちゅう)ぐらい もっとすごいのがおるのじゃ。まあ、上の中ぐらいじゃのう。王仁三郎ぐらいか、まあ、王仁三郎じゃったらどうしたかじゃ。そもそも、わしが殴られるようなことはなかろうが、まあしかし、警官隊に殴られたわけじゃから、まあ、似たようなもんじゃのう。で、王仁三郎じゃったらどうかちゅうと、殴られてどうなるかちゅうと、まあ、大本が潰(つぶ)されとるわけじゃのう、ダイナマイト千五百本でぶっ飛ばされたわけじゃから、そりゃ、頬っぺた殴られるよりは痛いぞよ。ダイナマイトで、大本の本部全部、ぶっ飛ばされたんじゃから。これは、頬っぺた殴られるよりは、だいぶ痛かったぞ。わしも、監獄にもぶちこまれたからの、これは。頬っぺたよりも、よっぽど痛かったのう。 そこで、わしはどうしたかじゃのう。まあ、わしの場合だと、やはり真実は、真実、ほんものは曲げられん。この世的な結果は、神仏の御心(みこころ)のままにと、まあ、こういう心境じゃ。真実は真実、わしが間違っていなかったのは、間違っておらん。しかし、この世的には、いろいろあるじゃろ。この世的に、どう顕われるかは、神仏の御心のままじゃ。心乱されては、いかん。真実は真実。しかし、御心のままに、と。この程度の心境じゃろうのう。まあ、上の中ぐらいじゃのう。先程の教育家よりは、ちょっと上なわけじゃのう。 教育家はいっぱいおるのじゃ。町の教育委員なんかつかまえれば、まあ、間違いないわ。で、そのような殴り方をすれば、風紀を乱すなどと言うのがいっぱいおる。じゃが、もっと神仏を知った人間になると、それだけの判断はせぬ。まあ、ダイナマイトでぶっ飛ばされても、それを怨むでもなく、謗るでもなく、真実は真実じゃ、と。わしは、そう思う。じゃが、この世的に、それが、その真実がどう顕われるか。真実の顕われ方が、阻まれるか、それは、御心のままじゃ。これはやむを得ない、というのが、わしぐらいの考えじゃのう。 まあ、イエス様もわしも、そう変わらんと思うが、そうじゃのう、一般の常識人から言えば、わしよりは、ちょっとだけ偉いじゃろう、イエス様のほうがのう。じゃが、イエスじゃったらどうかちゅうことじゃのう。わしの場合は、ダイナマイト千五百本ぐらいで大本をぶっ飛ばされたが、まあ、あとは、悠々自適で余生を送ったわけじゃが、イエス様は、もっといったのう。十字架じゃ。 10.イエス様の心境は、馬鹿も徹底した "神" の姿 殴られるどころじゃないのう。殴られとるぞ、十字架の前に、十字架に架(か)けられる前には、殴られとるんじゃ。頬っぺたに唾をかけられとる。茨(いばら)の冠もかけられた。殴られた人がどうなったかと言うと、殴られた上に、さらに十字架につるされて、手に釘(くぎ)を打ち込まれて、わき腹を突きさされて死んだんじゃ。したがって、どうなったかと言うと、結局、右を殴られたら、それ以上のことをされたわけじゃのう。 イエスは、頬っぺた、右を殴られたら、左も差し出しなさいと言うたけれども、まあ、それが彼の人生じゃのう。頬っぺた、左どころじゃないのう。右の頬っぺた殴られた上、唾をかけられて、茨の冠を被(かぶ)されて、そして、罪人と一緒に引きずられて、十字架を負わされて、最後には、殺されてしまうちゅうんじゃから、ええこと、何もなしじゃ。もう徹底的じゃのう。上着も取られたら、下着も取られるちゅうことだが、そのとおりになっておるわけじゃな、下着どころではないわのう、命までも取られたわけじゃ。 じゃから、こう見ると、先程の法律家の嘲笑(あざわら)いじゃないが、右殴られたら左出すちゅう馬鹿かと言うけれども、もっと馬鹿なわけじゃのう。イエス様ちゅうのは、徹底的な馬鹿なわけじゃ。頬っぺた殴る人に、頬っぺただけで気がすむのか、のう、右も左も殴らしてやる、と。それでダメなら、足蹴りでもいいぞ。それで嫌なら、わしの生命をやろう。お前がそれはどこの世が辛(つら)いんなら、お前がそんなに迷うとるのなら、わしの体で、生命で、いいのなら、わしの生命をやろう、と。これはイエス様じゃのう。王仁三郎は、生命までやろうとは思わんかったのう。そこまではやっぱり思わんかった。 まあ、イエス様の考えは、そういうとこじゃ。じゃから、右殴られたら左までとは言わんけれども、もっとじゃのう、生命までじゃのう。で、自分は、要するに、神理を説いただけじゃ。神の心を説いただけで、何にも得とらん。すべてを出したわけじゃのう。まあ、自己犠牲の最たるもんじゃ。 まあ、普通はここまではいけんわ、のう。結局、頬っぺた殴られた人に、家ごと、財産ごと、全部やって、そのあと、自分の生命までやってしもうたわけじゃ、イエスちゅうのは。そこまでやったんじゃ。財産も、生命も、すべてやる。それで、お前たちは、目覚めなさいちゅうことじゃ。まあ、神様の独(ひと)り子かどうかは、わしは知らんが、それほど偉い人が出て来て、自らの生命を捨ててまで、気づかそうとしたわけじゃのう。 まあ、そこまでやらなければ、人類は自分らの罪深さを気づかんちゅうことじゃ。イエス様が、頬っぺた殴られたぐらいで、要するに、槍を振り回してのう、周りの人を五、六人殺して、それで最後、戦の末に斬り伏せられて死んだちゅうなら、のう、わかるぞ。じゃが、そうじゃなかったわけじゃ。徹底的に全部奪われたわけじゃ。そして、奪われたなかに、すべてを与えたわけじゃのう。すべてを与えて、目覚めの機会を与えようとした。 まあ、これなどは、先程の教育家どころじゃないわのう、もっとすごいわ。要するに、自分というのが、もうないわけしゃ。まあ、上の下の教育家ぐらいだと、まだ自分があるのう、自分は教育者としての立場があるから、人を指導せにゃいかんと思うとる。王仁二郎じゃ、行雲流水(こううんりゅうすい)で、まあ、余生を悠々自適、やるだけのことはやったと思うていくのが、わしじゃ。イエス様は、ダイナマイトで、神殿ふっ飛ばされただけでなくて、肉体までふっ飛ばされるところまでいかんかったら、要するに、愛と慈悲の活動を止(や)めん人じゃ。そこまで行く人もおる。 じゃが、これは普通の人は真似しちゃあいかんぞ、こんなころへは行けんのじゃから普通はのう。まあ、こういうふうに、人間の心ちゅうものを、ひとつ取っても、やっぱりいろんな状態もあるし、まあ、仕組み、作用、段階、いっぱいあるわけじゃ。これは、やはり、偉大な人が出て来んと、なかなかわからんのじゃ。まあ、そのままの人間に聞きゃあのう、十人に聞けば、九人以上は右の頬を殴られたら、左の頬を殴られたいと思う人は、絶対におらん。上着取られて、下衣というかのう。下着まで取られていいと思う人おらんじゃろう。 11.神仏は、すべてを許されている慈悲深いお方 まあじゃが、そういうことを教えることによって、神の世界というものを、感ずる人はおるんじゃ。イエス様の話をしたけれども、神様ちゅうのかのう、神仏ちゅうのは、ちょうど、一緒なんじゃ。神仏ちゅうのはのう、右傾を打たれるときには、左の頬を、先に出しとるばっかりじゃ。わかるかのう、人間は神の子じゃ。神が創って、幸せにしようと思って創った者同士が、戦争してみたりのう、犯罪をしたり、他の宗教を迫害したりしとるわけじゃ。同じ神様が創った宗教じゃのに、他の宗教家を迫害したりしとる、こんなのはもう、結局、神様自身が汚されておるのと一緒じゃ。自分が創ったもんで、自分が汚されておるんじゃ。ちゅうことは、どういうことかと言うとのう、神様という人は、よっぽどお人好しなんじゃ。これは間違いない。 お人好しでなけりゃ、そういうのを許せんと思うのう。間違った宗教家じゃの、軍人じゃのいうのは、神様が、もう潰(つぶ)してしまえばええんじゃ。すりこぎみたいのでゴシゴシとやって、潰してしまえば終わりなんじゃ。しかし、潰さんじゃろう。何で潰さんかじゃ。なすがままにされるということじゃのう。これは、イエス様の考えと一緒じゃ、右の頬っぺた出されても、祇抗しちゃあいかん。悪に抗するなかれ、左の頬っぺたも出す。 イエス様の態度ちゅうのは、神様と一緒なわけじゃ。神様は、この世の中を見ればのう、そのまま見ればのう、もうこれは閉じてしまいたいと思うぞ。わしは、地球なんか風呂敷か何かで、くるっと、くるんでのう、宇宙のどっかゴミ捨て場か何かでのう、ポッと捨てると一番ええと思うぞ、わしが神様じゃったら、そうするのう。こんなうっとおしい人間が五十億もおって、ろくな人間はおらん。まあ、心ある人はもうちょっとだけじゃ。わしの話を聴いたり、わしの本を読む人だけじゃ。心ある人はのう。あとは、皆んなおかしいのばっかりじゃ。こんなのもう、地球丸ごと、風呂敷に包んで、どっかブラックホールでも何でもええが、ポンと捨てちゃえばいい。まあ、捨ててやりたいのう、そんな気持ちになる。 しかし、それを神様は、されん。だから、どれだけ、要するに、神様がお人好しかじゃのう。お人好しちゅうんじゃなくて、まあ、はっきり言えば、慈悲深いわけじゃ。それだけのう。それだけの慈悲じゃ。まあ、大仏さんの慈悲どころじゃない。もっと大きいんじゃ。まあ、そういうことじゃ。そういういろいろな話をしてきた。宗教の使命ということでのう。